春―③

第1話 運命の出会い―桃地杏の場合―

 Side—桃地杏


 4月22日、月曜日。

 今日も清々しい朝なのです。


 早朝5時の、真新しい空気を部屋に迎え入れて、大きく深呼吸をするのです。

「すぅーーーーーーー、はぁーーーーーーー」


 歯磨きをしたらシャワーを浴びて、髪を丹念に洗います。

 一点の汚れも許してはならないのです。


『臭い』なんて、決して思われては、いけないのです。


 ブゥオオオオとドライヤーで髪を乾かして、ヘアアイロンで丁寧に巻きます。

 生まれつきのクセっ毛は、すぐに広がってしまうから厄介です。

 巻き終わったら、低めに結わいてポニーテールにします。


 ジョギングに行くために、スウェットを着用しました。


 きっちりとアイロンをかけたブラウス、スカート、ストッキングをチェックします。


 伝線など、決してゆるされないのです!!



 あれは、小学5年生の時。

 朝の教室での事。


『うわぁ、桃地、髪にごはん粒付いてるー。きったねぇー』

 同じクラスの男子が声を上げました。


『本当だー。どうやってご飯食べてるの? ウケるー』


 それまで、極力目立たないように生きて来て、初めてクラス中で注目された瞬間でした。


 いつも大人しく、おどおどとしていた私は、目立たないどころか、悪目立ちしていたようで、あっという間にいじめの対象になってしまったのです。


 休み時間と言えば、男子に追いかけまわされボールを投げつけられ。

 女子からはこのクセっ毛をネタに嘲笑され。

 上靴を隠され、教科書を破かれ、宿題のプリントはトイレの便器に捨てられました。


『ごめーん、手が滑った。詰まると困るから拾っておいて』


 えっと、あの子の名前と顔は……。


 思い出せません。


 その頃から、私は人の顔や名前をすぐに忘れる癖がついたのです。

 今の所、特に問題はありません。


 生徒たちは、訊ねたら嫌な顔一つせず、教えてくれるからです。


 いじめから解放されたのは中学卒業後。


 私は高校デビューを果たしました。


 毎日髪を巻いて、薄くお化粧をして学校へ行く。

 仲良くなった友達の名前と顔は全部、ちゃんと覚える事ができました。


 男子に告白された事も何度かあります。


 しかし――。


 やはり地元は地元。


 小中の友達は、そこら中にたくさんいて、私の悪評は高校にも拡散されました。

 ある事ない事、ない事、ない事、たくさん……。


 小中の時のような、あからさまないじめに発展する事はありませんでしたが、私は見事に孤立してしまいました。


 自分から、距離を置いたのかもしれません。


 そんな孤独な私を救ってくれたのは、学校の保健室の先生でした。

 優しくて、強くて、とてもきれいな先生でした。


 私も先生みたいになりたい!

 そして大人になったら、この街を出たい。


 そうして、選んだ進路が、現在なのです。


「はわわ! 良太君!」


 窓の外に、スウェット姿の彼が現れました。

 入念にストレッチをしています。

 この頃、毎日、朝晩走っているようです。


 私も一緒に行くのです。


 お気に入りのスウェットに、大好きなスニーカー。

 かわいくて、ごめん♪


 彼を初めて見かけたのは、上京してきた初日です。

 大家さんに挨拶に行くべく、近所の商店街で、菓子折りを買い終えた時。

 店の外で女の子の悲鳴にも似た声が響きました。


『いやーーー、やめてー、やめてーーー、返してー返してーーー』


 見ると、小学生ぐらいの女の子が、男子達に囲まれて揶揄われているようでした。


 男子の手には、可愛らしい封筒が握られていました。


 それはラブレターのようでした。

 それが、男子達の興味を引いたのでしょう。


『私は、~~君の事が好きですーーー。好きですだって、キモーーー』


 その光景が、自分の幼い頃の記憶と重なり、胸が痛くなりました。


 助けてあげなきゃ。でも、怖くて声を上げる事ができません。

 上手に振舞えるかとても不安でした。


 その時です。


 颯爽と現れた高校生ぐらいの男の子。

 幼さを残した顔立ちとは裏腹に背が高く、堂々としていました。


『こらこらー、お前ら女の子いじめるんじゃないぞ。人の手紙を勝手に見るのはプライバシーの侵害。キモいは侮辱罪! お前ら犯罪者だからな。警察呼ぶぞ』


 たちまちしゅんと青ざめた男子達。


『ごめん』

 と女の子に謝り、逃げるように走って消えて行きました。

 女の子の足元には、封筒とその中身の便せん。


 彼はそれを拾い上げて、便せんを封筒にしまうと、女の子に差し出しました。


『好きな人に、気持ち、通じるといいね』


 なんてかっこいいのでしょう!

 私は、一瞬にしてときめきました。


 神様! 彼が運命の人でしょうか?


 そう心の中で叫びながら、新居へと戻り、大家さんの元に菓子折りを持って行ったのです。


 大家さんと、ついつい長話になり

『あら、文化清松学院の先生ですか! うちの息子も今年から清松に入学するんですよ。よろしくお願いします』


 その時だった。


 開けっ放しだった玄関のドアから

『ただいま』

 と、彼が入って来たのです。


『はわわわわ!』


『あ、先生。紹介します。うちの息子、良太です』

 この子は、あの時、女の子を助けたあの子なのです!!


『こ、こんにちは。双渡瀬良太です』


『こ、これは、運命なのです!』


「運命なのです」


「あ、先生。おはようございます」

 アキレス腱を伸ばしながら、彼が私に気付きました。


「おはようございます。良太君。今日も一人ですか?」


 以前はあの子が一緒に走っていました。


「え? ああ、まぁ。美惑はこの頃、遅くまでレッスンって日が続いてて、朝はギリギリまで起きてこないので」


 これは、チャンスなのです。


「ふむふむ。先生も一緒に走っていいですか?」


「先生もいつも走ってますよね。行きましょうか」


 そう言って、緩やかな笑顔をくれました。

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