春―②

第1話 偽装恋愛の始まり

 新学期二日目。


「へっくちっ!」

 やたら鼻の奥がムズムズしてくしゃみが出る。


「花粉?」


 美惑が俺の顔を覗き込んだ。


「そうかも」


 電車に揺られる事数分。

 駅から学校まではおよそ5分。


 駅から校舎が見えるほどの近距離である。


 隣を歩く美惑は鼻歌交じりで、機嫌は上々。

 俺はと言うと、気まずさと恥ずかしさで、ずっと変な汗に見舞われている。

 しかも、寝不足で、頭がぼーっとして、ガンガンする。


「どうするんだよ! これ!!」


 チャリ。

 金属音が申し訳なさそうに、清々しい朝の空に霧散した。

 左腕を持ち上げれば、もれなく美惑の右手がついてくる。


「どうしようもないやん」


 美惑は悪びれる様子もなく斜め上を見上げた。


「俺とお前は、クラスも違うんだぞ!」

「先生に事情を話せば、きっとわかってくれるよ」

「っぐぬ!」


 俺の左手と、美惑の右手は手錠で繋がったままだ。


 あの時、美惑の谷間に挟まっていた鍵は、結局、この手錠の物ではなかった。

 むにゅっと侵入した谷間の感触と温もりが、まだこの手に残っていることだけが、俺にとっての唯一のラッキー。


 もう一つの鍵を血眼で探したが、結局見つける事ができなかったのだ。


 一晩中、朝まで美惑とこの距離で過ごした。


 お風呂も、トイレも、宿題も、ご飯も、寝るのも。

 この距離で美惑と一緒。

 お風呂だけは、お互いの大事な部分は見ないようにと、お互い目隠しで手探り。

 羨ましいと思ったやつ、出て来い!

 とんでもない地獄絵図だからな!


 制服は袖を通せないので、片方だけ袖を通し、なんとか登校してきたという訳。


 仕方がないので、一旦2-Aの教室に入る。


「おはよー」

「お、リョータ。おはよ」

「はよ」


 物珍しそうに、集まって来る視線から逃げるようにして、とりあえず俺の席に座る。


 一瞬、白川と目が合った。

 しかし、彼女はすぐに何事もなかったかのように、手にしている文庫に視線を落とした。


 朝の電車で白川を見かけなくなったのは、今年の1月ぐらいからだ。

 電車を変えたのか、親に送ってもらっているのかは、わからない。

 きっと誰も知らない。


「リョータ、おはよー」


 安楽慎吾だ。


「はよ」


「あれ? 何それ? え? えええーーーー??」


「あは~。バレた」


「遊んでたらこんな事になっちゃった、てへへ」

 美惑は、安楽に手首を持ち上げ、見せびらかす。


「仲良すぎじゃね、お前たち。いいなー」


「良くないだろ、この状況はどう見ても! 鍵がなくなっちゃったんだよ」


「ん? ちょっと見せて」


 安楽は手錠が嵌まっている腕を持ち上げた。


「これおもちゃだろ」


「そう、おもちゃ」


「これ、鍵なくても外せるぞ」


「え? どうやって?」


「えーっと」


 安楽は教室をぐるっと見回して、隣の席に座る女子生徒に声をかけた。


「ちょっと、そのヘアピン貸して」


 頼まれた女子は、「え?」と怪訝そうな顔をしたが、前髪を留めているピンを外し、安楽に差し出した。

 事情を察してくれたようだ。


「ありがとう。すぐ返すから」


「俺も、一回これやっちゃった事あるんだよ。小学校の時」

 そう言いながら、手錠の付け根にある小さな穴にヘアピンを差し込む。


 カチャっと音を立て、いとも簡単に外れた。


「マジかー! シンゴありがとう! いつもアンラクシなんて言ってごめん。お前は命の、いや、尊厳の恩人だよー。うっ、うーーー」


 俺は、泣いていた。

 このまま一生、美惑とお風呂やトイレを共にするのかと思ったら、ストレスでハゲそうだった。


 あははーと気まずそうに笑う安楽の隣で、美惑は面白くなさそうに「大げさね」と言った。


 手錠から解放されても、美惑は俺にぴったりとくっつき、椅子の半分を占領している。

 それを押しのけるようにして、中途半端に着ていた制服に袖を通す。


「もしかして、お前たち……」


 安楽が口元でワナワナと手をふるわせて、俺と美惑を指さす。


「こんな遊びをするって事は……」


 そうだ、目的は恋人のふり。

 ここで、認めれば、俺と美惑は恋人同士だとクラスで認識されるだろう。

 白川が歯噛みして、俺の足元に、ひれ伏す日が近付くわけだ!


「いや、実は……さ」


「変態だろ! 変態!! お前、変態だな!」


 やめろ。これ以上変態を連呼するな。


「美惑ちゃんが、変態なわけないからな。お前が彼女を無理やりーーーー!!!」


「違う違う!!」


「手錠プレイぐらいするでしょ」


 割って入ったのは美惑だ。


「だって、あたしたちーーー、付き合ってるんだもーん!」


 クラス中に聴こえるほどの声でそう言った。


「目隠しだってするしー、お風呂も一緒に入ったよ」


 クラスが騒然とする。


 男たちは愕然とする。


 銃で撃たれたか? と思うほどの勢いで倒れ込む奴もいる。


「マジ? マジなのか?」


 安楽は想定外の展開に、口をパクパクしていた。


「あは、実は、そうなんだ」


「リョータ、てめぇーーーーー、ギルティ! ギルティーーーーー」

 と、ヘッドロックをかける。


「やめろ、やめろって」

 本気で痛いし苦しい。

 首に巻き付く腕にタップした。


 ふと気が付くと、白川の席は空っぽになっていて、彼女の姿はどこにもなかった。



 リーーーンゴーーーーンと、朝のホームルームを知らせるチャイムが鳴り。

 美惑は俺だけに派手な投げキッスをしながら2-Aの教室から出た。

 その瞬間、振り返り

「良太! 浮気したらぶっ殺すけんなっ!」


 そう凄んで、くるりとこちらに背を向けた。



 地獄の拘束から解放されて、清々したのも束の間。

 俺を襲ったのは、激しい悪寒と、割れるほどの頭痛だった。


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