聳え立つ群青の刃 〜男体山〜

早里 懐

第1話

私にとって記念すべき100座目だ。


節目の登山であるため私は妻を誘った。



次が登山を始めてから記念すべき100座目になるから一緒に登って欲しいと。


「ふーん」

妻は全くと言っていいほど興味のない返事をした。


"記念すべき100座目"という言葉に対して妻の反応はまるでチルド室の様に冷めていたのだ。


末端冷え性だからだろうか。



いや、違う。


妻は登山という行為をカロリー消費の運動としか捉えていないからだ。


よって、100座目だろうが200座目だろうが妻にとっては全くと言っていいほど興味のないことなのだ。



しかしながら、そんな妻もカロリーを消費するために登山をすることはやぶさかではないと常々思っている。


よって、100座目の記念登山は妻と一緒に登ることになった。


次に決めるべきは登る山だ。


記念登山とするからには百名山の中の一座にしたい。


しかし、自宅から比較的近い百名山はすでに登っている。

子供たちのクラブ活動の送迎を考慮すると、あまり遠くの山には足を伸ばせない。


登山地図を眺めながら検討した結果、日光のランドマーク的存在である男体山が目に留まった。


この山は以前から登りたいと思っていた。


見た目がとても格好良く、山頂では360°の絶景が拝め、登山道も潔い直登であり、尚且つ山頂には岩に突き刺さる御神剣があるからだ。

ドラゴンボール世代からすると、まさしくゼットソードだ。


考えれば考えるほど私の心をこれでもかとくすぐってくる山だ。


しかし、直登が続くことで有名な男体山を妻が登れるのか?


私の頭の中に一抹の不安がよぎった。


しかしながら、妻も名だたる山々を私と一緒に経験してきたハイカーだ。


私はソファの上に根をはり一切動かない妻を見ながら思った。




妻ならきっと登れるはずだと…。






台風2号が過ぎ去った日曜日。


朝早くに私たちは家を出た。


日が昇る前であるため辺りは暗闇に包まれている。


外は夜明け前の静寂が広がっている。



一方、車内に目を向けると妻は朝から素晴らしい話芸を連発している。


私の妻は「静寂」の対義語として存在している。


その妻を助手席に乗せるということは朝早くといえども私に眠気を感じている暇はない。



要するに話芸に秀でている私の妻は話題の引き出しが豊富なのだ。


しばしば、同じ引き出しを何度も開ける性質を兼ね備えてはいるが、まさに人間薬棚といっても過言ではないほどの引き出しを所有している。


赤ひげを演じる三船敏郎の後ろに配置したいくらいだ。



そのような環境下でハンドルを握っていると妻が突然カーナビゲーションを指さして恐れ慄き出した。


私はその指先に目を向けた。


そこには幾重にも折り重なり、大蛇のようにくねくねと蛇行するいろは坂があったのだ。


妻は言葉の創造と感情の起伏にスキルを全振りしたことで三半規管がとても弱い。


よって、車酔いをもたらすくねくね道に対しては急登と同じくらいの恐怖を抱くのだ。


車酔いを防ぐため、いろは坂手前で妻に運転を変わった。


運転をしているといくばくか車酔いをおさえられるそうだ。



私は助手席のカーウィンドウ越しに外の景色を眺めた。


緑が美しく太陽に照らされていた。


紅葉の季節はどれほどの自然美を見せてくれるのだろうか。


そんなことを考えていた。




いろは坂を越えると本日の目的地には数分足らずでたどり着いた。



日光二荒山神社だ。


私たちは境内にある登山者専用の駐車場に車を止めた。


台風一過の晴天だ。

まだ、6時を回ったばかりだが、第一駐車場はすでに9割ほどが埋まっていた。


準備を整えトイレを済ませて出発した。


荘厳な日光二荒山神社の後ろには雄大な男体山がそびえていた。


私はこの光景に身震いがした。


神々が住む神社を例える言葉としては適切ではないが、まさに“かっこいい”という言葉で私の脳内は満たされていた。



ふと隣を見ると肩を落とし項垂れる妻が見えた。


男体山の頂上を見てしまったからだろう、今からあの場所まで行くことを想像したことで妻のテンションは地面を突き刺し太平洋プレートに届いてしまうほどに下がっていたのだ。


そんな妻を勇気づけた後に私たちは登拝料を納めお守りを頂いた。


そのお守りをしっかりと首にぶら下げ、安全を祈願し、登拝門をくぐってスタートした。


初めは整備された階段を登っていく。


数回妻との会話を試みたが、まだ一合目にも到達していないこの時点で、妻は一切の言葉を封印していた。


酸素を大量に吸い込み二酸化炭素を大量に吐き出すという行為をただひたすらに繰り返していたのだ。


因みに、妻がこの日に排出した温室効果ガスの影響で日光の気温が約1℃上昇したと言われている。





一合目以降は樹林帯の急登が続く。


妻はひたすら地面を見つめ登っている。

そのうち腰を曲げすぎて前転をしてしまうのではないかといつも不安に思っている。


私は万が一妻が前転しても支えられる様に意識して3歩程度前を歩いた。



私たちは三合目にたどり着いた。


ここからは傾斜がなだらかな舗装路を4合目まで歩くことになる。


その過程で妻は見事に復活した。


その証拠にいろは坂を彷彿とさせる蛇行した舗装路に対して強気にインコースを攻めているのだ。


少しでも歩行距離を短くしたいという思いからこの様な行動に出ているのだろう。


まさに令和の時代に見事復活したアイルトンセナだ。


この勢いを持って4合目を通り過ぎたが、5m程進んだところで減速し早々にピットインした。




4合目以降も急登は続くが、この辺りからシロヤシオの群生が見られた。


陽の光に純白が映えている。


しばらく登ると上の方から歓声が聞こえてきた。


私たちも気になり皆が見ている方向に視線を送った。


すると雲を突き破る富士山が遠くに見えたのだ。


私たちもその勇姿にしばらく見惚れていた。



5合目を過ぎると岩ゾーンに突入した。


手を使いながら全身で登っていく。


この岩ゾーンは8合目まで続いた。


8合目以降は土嚢が敷き詰められている道を登ることになるが斜度は比較的緩やかである。


9合目を過ぎると森林限界はすぐそこだ。


しばらく進むと一気に景色が開けた。


振り返ると中禅寺湖の全貌が拝めたのだ。


その先には筑波山や富士山。

西側には皇海山や日光白根山。

名だたる山々を一望する。


この景色を評価するために用いる言葉は私の語彙力をフル活用しても生み出すことは出来ない。

ただただ圧倒され無言で眺めた。




その後はザレ場の急登を登り山頂に辿り着いた。


私は念願の御神剣を近くで見るために妻を誘った。

しかし、妻はすでに燃え尽きており小屋の壁に寄りかかり置物と化した。


こうなった妻を突き動かすには、目の前に札束をぶら下げるしかないが、あいにく札束は持ち合わせていない。


よって、私は1人で御神剣に向かった。


近くで見ると凄い迫力である。


無理は承知で抜刀を試みた。


しかし、結果は明白だった。

びくともしない。


私は空を映す御神剣をしばらく眺めた。

心の浄化という現象を私はこの時に身をもって体験した。



私は妻のもとに戻った。


相変わらずの置物である。


先ほどからおそらくは1mmも動いてはいないだろう。


このままでは仏像と間違えられ、お賽銭を投げられてしまう可能性がある。


そのことを懸念した私は妻に少しでも動いてもらうためにお昼ご飯を食べることにした。



今日は100座目記念の登山だ。


食後は妻が焼いてくれたカップケーキに私が持参したホイップクリームでデコレーションを施した。


カロリーを摂取し回復した妻からはセンスが欠落したデコレートだねと笑われた。


しかし、私は山頂で妻と食べるセンスのかけらもないデコレートが施されたカップケーキにとても満足した。


ふと妻を見たが、そのカップケーキを美味しそうに頬張る妻の横顔からは私と同じ気持ちであることがうかがえた。


食事を終え、私たちは下山した。



下山後の妻の表情はとても晴れやかだった。


体力的にとてもきつい山で知られる男体山を無事に登り切ったからだろう。




帰りも車酔いを回避するために、いろは坂は妻が運転した。


トレッキングポールを握ったハイカーの妻は崖から転げ落ちてしまうのではないかと心配するほど、なりふり構わずインコースを攻める。


しかし、ハンドルを握ったドライバーの妻は安全運転を常に心掛けているためインコースは攻めない。


人は身につける物や持つ物によって性格が変わったり別人格が生まれる。

このことをドレス効果というらしい。


因みに私はゼットソードこと御神剣を握った時、気分はまさに孫悟飯だった。




いろは坂を下り切った時点で私は運転をかわった。


疲れからだろうか妻はすぐに夢の中にピットインした。


私はその寝顔を見ながら100座目の山行に付き合ってくれたことに感謝をした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

聳え立つ群青の刃 〜男体山〜 早里 懐 @hayasato

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ