第7話 研究室トラブル
私は今の仕事をはじめた日からこれまでのことを思い出した。
この研究室で働くことになった最初の日、私は前任者の引き継ぎノートを確認していた。
直近の前任者は1ヶ月で退職し、何の引き継ぎも残していないと聞いている。引き継ぎノートの作成者は恐らくその前の秘書さんだろうと思っていた。だが、全て読みおえた時に気づいた。このノートは12人の歴代秘書たちによる合作だ。みな、最後の引き継ぎページに日付を残している。この日付から推測するに、いちばん長く続いた人で3ヶ月、それ以外の人は1、2ヶ月でやめている。
ここの教授は幾度となく秘書に見捨てられてきたのだろう。気の毒だ。
いったいどんな問題を抱えた教授なのだろうと思ったが、初めて会った時は驚いた。こんなにやる気のない教授がいたのかと。
察時の口癖は
「どっかにやりがい売ってへんかな〜」だ。
いつも気の抜けた笑みを浮かべてTwitterばかり見ている。
だが、察時教授はただのやる気のない人間ではなかった。医学界では最先端の再生医療の研究を成功させ、世界から注目されている。優秀な研究者だ。いったいいつ、そんな研究をしているのか不思議で仕方ない。それほど、本気で何かに取り組んでいる姿を目にしたことがなかった。
「無理しないでね〜。疲れたらいつでも休憩してええし、なんなら早退してもええから〜」
私にはいつもそう声をかけてくれる。こちらからすれば、自由に働かせてもらえるのでその点文句はない。
だが、この研究室の問題は教授ではなかった。恐らく秘書たちが次々と辞めてきた理由は助手の小野田だ。出勤初日に問題は明るみに出てきた。
はじめましての挨拶をした時、彼は私にこう言った。
「前の秘書は大脳に突き刺ささるような品のない香水の付け方をする人でした。いや〜あなたは違います。気品高く可憐な香り。ずばりシャネルのチャンス!オータンドゥルですね?」
出会ったことのないタイプの失礼な奴だ。自信満々に指摘した香水の銘柄は間違っている。(私の愛用する香水はサンタマのチッタディーキョートだ!覚えておけ。)
そう心の中で叫び、私はとびきりにこやかな笑顔でこう言った。
「小野田さん、香水にお詳しくていらっしゃるのですね。そんな高貴な香りがすると言っていただけて光栄です。」
私があくびをして感情のない涙を流すと急にやって来て、「どしたん?聞くで」と勘違いモード炸裂だ。距離感のおかしい助手だ。
それから小野田は自分の気に入らないことがあるたびに平気で人前で舌打ちをする。
言葉が思い出せない時も、本のページが思うようにめくれない時も、自分の発注ミスで実験マウスが500匹納品された時もだ。
いらだちの感情を人前で撒き散らすとはなんとみっともないのだろう。自分の負の感情で空間を埋めるとは配慮が足りない。今すぐやめていただきたいところではあるが、私は気づかないふりをしている。
そんな時の心の鎮め方はこれだ。小野田が舌打ちをするたびに私の基本給を1,000円ずつあげる契約をいつか結びたいと考える。そうすればこの不快な音もいつしか喜びに変わるだろう。そんな未来を思い浮かべて、この不愉快さに折り合いをつけている。
そんなわけで、厄介な助手の存在は気に障るが、多少のことは目をつぶることができた。
翌朝、6時に電話が鳴った。私は仕事のある日は毎朝8時に起きる。出勤は世間では遅めの10時だ。
こんな朝早くに何事かと思いスマートフォンをみると、助手の小野田からだった。
「た、た、たか、高嶺さん!大変です!!うちの研究室に何者かが侵入したようです!」
察時はいつものほほんとしているが、自分の研究室のセキュリティだけはこれでもかというくらい頑丈にする人だ。本当に侵入者がいるのだとすれば、おおごとかもしれない。
脳裏に昨日の占い師の言葉がよぎった。
不安に駆られた私はすぐに研究室に向かうことにした。
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