第6話 秘書の不可解な日常

阪急電車が遅延して仕事に行けない。


遅延した理由は桂駅の線路に立ち入ったカラスの交尾だという。あの日から奇妙なことばかり起きるようになった。


最初に起こった不可解な出来事、それはうちに居着いたアダンソンハエトリグモが突如姿を消したことだ。もう3ヶ月は共に暮らしていたので急に寂しくなった。奴の名はラヴィ。私が唯一心をゆるすことのできる虫だった。虫は昔からビジュアルが苦手で直視できなかったが、ラヴィにだけは自然と愛着が湧いたのである。


ラヴィが粋なクモであることを確信したのは、私がストラヴィンスキーの春の祭典を聴いていた時のことだ。部屋の壁に張り付いていた1匹の小さな蜘蛛が急に踊り出した。もちろん最初は気のせいだと思った。春の祭典といえば、フランスパリのシャンゼリゼ劇場で初演された当時、聴衆が大ブーイングを引き起こした前代未聞のバレエ音楽。まさかこんな複雑難解な曲を蜘蛛が理解できるはずがないと思った。だが、変拍子に合わせて飛び跳ねるタイミングは決して偶然ではなかった。その足捌きは長年ストイックに練習を重ねてきたであろうプロバレリーナに劣らない。実験的にもう一度そのフレーズを流すと、また同じ足捌きで飛び跳ねた。彼だか彼女だかわからないが、この日から私は蜘蛛にラヴィと名前をつけて可愛がった。



安易かもしれないと思ったが、偉大なロシアの作曲家ストラヴィンスキーから取った名だ。


綿棒に砂糖水をたっぷり含ませたものをあげると喜んで駆け寄ってきて、夢中になって吸い付くラヴィの姿はたまらなく愛おしい。


帰宅するとどこからともなく玄関までやってきて出迎えてくれる。まさかこんな小さな虫が人間に懐くとは思いもしなかった。


ラヴィとの間に友情が芽生えてから3ヶ月経った頃のことだ。家の最寄りの駅ビルで買い物をしたら抽選券をもらった。どうせハズレだろうと思いながらスクラッチを5円玉で削った。現れた文字は4等。裏面を見ると4等は駅ビルの最上階にある占いの館で20分鑑定プレゼントと書いてある。


生まれてこの方、占いなど信じてこなかった私はすぐにゴミ箱に捨ててしまうつもりだった。


だが、ふとエレベーター横に貼ってある占い師紹介の宣伝が目に入った。

占い師の名はミステリーるりこ。

得意な相談内容にペットの気持ちという項目があるではないか。ラヴィはいったいどこからやってきて、どういうつもりで私と暮らしているんだろう。これだけは調べようがない。そもそもペットの気持ちなど確かめようがないのだから、占い師がいくらデタラメを言っても当たっているのか外れているのかさえわからないではないかと思った。


でも、いったいどんな風にペットの気持ちを占うのだろう。気になり出した私は面白半分で7階の占いの館へ向かった。


占いブースに入ると60歳前後の女性が椅子に座っていた。見た目は至って普通だ。話し方もまともな人らしかった。


「こんにちは。初めての方ね。今日はどんなご相談?」


「えっと、ペットの気持ちを見てもらいたいのですが...」


「はい、わかりました。ペットちゃんのお名前は?」


「ラヴィです。」


「ラヴィちゃんね。はい、じゃあみてみましょう。少しお待ちください。」


ペットが何の動物かも、何に対しての気持ちを知りたいのかも聞いてこなかった。ミステリーるりこは目の回る速さでタロットカードをシャッフルし並べ始めた。



「はい、お待たせしました。ラヴィちゃんね、この子とても小さくて黒いわね。ハムスターよりももっと小さい生き物、哺乳類じゃないわね。」



ラヴィが蜘蛛であることは一言も言っていないが、どことなく当たっている。だがこの程度で占いを信用してはならないと思った。



「はい、蜘蛛なんです。」


「あら、やっぱり。とても賢いわねこの子。あなたに懐いてる。でもね、気をつけた方がいい。」


「何をですか?」


「この子は何か企みがあるわ。あなたの持っている情報を狙ってる。スパイを意味するカードが何枚も出てるのよ。」


「あなた仕事は何をされてるの?」


「大学で教授の秘書をしてます。」


「それだわ。」


「え?」


「ラヴィちゃんはね、あなたが有益な情報を持っているのを知っていて、あなたに近づいた。そうカードが言っている。とにかくとても頭がいいから気をつけて。きっと必要な情報を手に入れたらあなたの前からいなくなるわよ。」


ここまで聞いて私は呆れてしまった。ジョニーがスパイ?あの小さな蜘蛛が?


笑ってしまった。きっとこの占い師はペットの気持ちなど何もわからなくて、困り果てた矢先にスパイダーから連想する言葉で適当にストーリーを作り上げたんだ。きっとそうだと思った。


「そうですか、わかりました。今日はこれで失礼します。」


鑑定時間は10分以上残っていたが、無料チケットを置いて私は逃げるように占いブースを出た。


家に帰るとラヴィはいなかった。玄関まで迎えに来なかった日はこれまで一度もなかったから、急に寂しくなるではないか。家中どこを探しても見当たらない。



私は占い師の言葉を思い出した。



「きっと必要な情報を手に入れたらあなたの前からいなくなるわよ。」


まさかとは思うが、もしあの占い師の言うことが本当なら、ラヴィが必要としている情報とはいったい何だろう。

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