第1話 ホテルバイト@京都
「錦市場まで仕入れに行ってるんか?」
中年夫婦の男性が僕を手招きして尋ねてきた。
「すぐに上の者に確認して参ります。お待ちください。」
僕は今日からホテルのレストランバイトを始めた。フレンチのホールの仕事だ。
仕入れ先を尋ねてきた男性は鴨のコンフィをご注文だ。鴨の産地など出勤初日の僕が知るわけがない。
「力山さん、12番テーブルのお客様が鴨の仕入れ先がどこか知りたいみたいなんです。」
厨房に行き、マネージャーの力山さんに聞くと、こわい表情をして「すぐに対応するわ!」と言ってお客様のところへ飛んでいった。
それからしばらくすると力山さんは後ろから僕の肩を叩いて小声で言った。
「坂東、さっきのお客さんな、嫌味言うたんや。料理出てくるの遅いゆう意味や。」
僕はゾクゾクした。まさかこれが京都の嫌味というやつか?全く気づかなかった。
今思い返せば、確かにあのおじさんは意地悪な笑みを浮かべていた。それに僕が上の者に確認して参りますと言った時、すっきりしない顔でこっちを見つめていた。
僕が嫌味に気づかなかったから気に入らなかったのかもしれない。だが、不思議と嫌な気分はしなかった。新しいコミュニケーションの仕方をひとつ学んだ気がした。
僕がこういうのに疎いのは京都人ではないからだ。2週間前に京都に引っ越してきたばかりだ。
レストランの営業が終わり、締め作業をしていると2つ歳上の先輩から厨房に呼ばれた。
厨房に行くと売れ残ったケーキとパンがきれいに並んでいた。
「うちのレストラン、ケーキがいちばん美味しいんだ。毎日余るからさ、好きなやつ選んで」
「え、じゃあ」と言って選ぼうとすると
「マネージャーに見つかると怒られるから早くはやく!何ならぜんぶ持って帰っていいよ。」
「え、いいんですか?じゃあ遠慮なく」
僕は先輩が渡してくれた紙袋に急いでケーキとパンを詰め込んだ。
「それから1つ約束。これ、更衣室にそのまま持ってくとマネージャーにすぐ見つかるから、一旦ゴミ捨て場に置いて来て!それで帰りにこっそり持って帰るんだ。みんなそうしてる。」
みんな上司の目を盗んでそうしているらしい。
確かに、ひとつ800円もするケーキをタダで、しかもこんなに山盛りもらえるなら、そのくらいのリスクを取る価値はありそうだ。
僕は計画通りミッションをクリアし、退勤後に一度捨てたはずの紙袋を拾って帰った。
帰ったと言っても帰る家はまだない。
大学の合格発表から入学式まで2週間しかなく、僕はカプセルホテルに宿泊しながら大学とバイトに通っている。1日も早く住む家を探さなければならない。即決できない理由は、お金のなさだ。最初に行った不動産屋では予算を伝えると、そんな条件で空いてる部屋はどこを探してもないと門前払いされた。
宿泊中のカプセルホテルに戻って、廃棄になったパンを食べようと紙袋に手を入れた。
するとモフッとした何かに手があたった。
「ん、何だこれ?」
袋の中を覗くと、灰色の生き物がうずくまっている。よくみるとハムスターのようだ。どこで紙袋に入ったのだろうか。僕は昔飼っていたジャンガリアンハムスターを思い出した。
ハムスターを見ると昔一緒に住んでいた父さんのことも思い出す。幼い頃のことを思い浮かべると涙が出た。
「なっつかしいな。昔飼ってたチョビにそっくりだな。ハムちゃんどっから来たの?」
僕はハムスターに話しかけたが、怯えているようだった。袋の中をよく見ると、ほとんどパンがなくなっている。
「お前、ひとりで全部食べたのか?」
そう聞くと心なしかハムスターはうなずいたように見えた。
もし飼い主に捨てられたのなら飼ってもいい。だが、この狭いカプセルホテルでは無理がある。
このハムスターのためにも1日も早く家を決めたかった。明日は大学が休みだ。朝から不動産をあたってみよう。
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