事件勃発

「お疲れ様。初めての教壇で慣れないと思うけど、定年退職したベテランの先生が補助につくから安心して」


「中本先生ね、昨日お会いしたわ。兄の担任だったんですって」


「あら、それは奇遇ね。ちょっと気難しいところがあるけど、子供たちからは人気者よ。うまくやってね」


「はぁい」


「返事は『はい』でしょ」


 他愛のないやり取りで笑い合う。

 飾らない人柄の従姉との会話は気安くてほっとする。


「それじゃ、また」


 校門で従姉と別れると、自転車で実家に向かった。


「あれ、武留君?」


 小さな影が裏山に向かうのを見て、慌てて後を追う。

 さすがに入学前の子供が一人で山に入ったら危ない。


 六歳とは思えないスピードでどんどん上っていく小さな背中を追いかけると、いつの間にかあの桜の巨木が見えてきた。

 はらはらと舞い散る桜の下に、うずくまる長身の男……そしておさえつけられ、じたばたともがく小さな身体。


「何してるの!」


 唐突に襲ってきた頭痛と戦いながら、私は声の限りに叫んだ。

 急速に脳裏に蘇って来る、おぞましい記憶。


「誰だ⁉」


 男は慌てて獲物を離して立ち上がる。

 こほこほと乾いた音は、解放された子供の咳き込む声だ。


「中本先生⁉ 武留君⁉」


 振り返った男の顔は、昨日出会ったばかりのベテラン教師だった。

 そして咳き込んでいる子供はさっき会った武留君。そしてその傍らには、彼とそっくりの顔をした九歳くらいの男の子の姿。


 ……何もかも思い出した。こんな光景を目にするのは、私はこれが初めてではない。


「くそ、なんでこんな時間に人がいるんだ⁉」


 毒づく中本をよそに、あわててスマホに110と打ち込んで通話ボタンを押した。すぐに掴みかかってきた男に押し倒されたが、咄嗟にできるだけ遠くに投げ捨てる。

 中本の手が届かない場所まで転がったスピーカーから、すぐに事務的な声が流れてきた。


『事件ですか、事故ですか?』


「事件です、助けてください! 子供が襲われてる!」


 男に何とかしがみつきながら、平坦なまでに冷静な声に向かって必死に叫ぶ。


『それはどこですか?』


「吉田家の裏山の桜! すぐたす……きゃぁ!」


『もしもし、もしも』


 緊迫感を帯び始めた声に何とかそこまで告げたところで、激しく蹴りつけられて転がった。男は這うようにしてスマホを拾うと、そのまま桜の樹に叩きつける。

 スマホは無惨に割れたが、その隙に私はまた男の片足にすがりついた。


「武留君、早く逃げて!」


「ごほっ……みかせんせいは?」


「いいから早く! 誰でもいいから大人を呼んで!」


「くそっ、離せ!」


「早く! 助けを呼んで!」


 男に蹴られながらも必死に叫ぶと、武留君は愛らしい顔を恐怖に歪めながらも、強く頷き走り出した。


「離せ! この、できそこない!!」


 罵倒と共に降り注ぐ蹴りに、次第に意識が薄れていく。


 どのくらい時間が経っただろうか。遠くから響くサイレンの音が聞こえると同時に、私はかろうじて保っていた意識を手放した。

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