桜吹雪のまぼろし

 一人になってベッドにひっくり返るが、風の音が耳について離れない。

 ごうごうという春の咆哮に、言い知れぬ恐怖が込み上げる。


 これじゃ、なかなか寝付けそうにないわね。


 本でも読もうかと半身を起こすと、閉めたはずの窓がなぜか開いていて、揺れるカーテンの隙間から淡いピンクの花びらが舞い込んできた。


「……ひぃっ!?」


 ひんやりとした花のかけらがぴたりと頬に触れたとたん、また昼間の幻影が蘇る。


 はらはらと花弁を散らす桜の下、小さな身体を押さえつける長身の男。

 甘やかな花の香りに混じって何か刺激臭がする。

 ニタニタと笑みを浮かべる嫌らしい顔は、どこかで見たような、それでいて別人のような……


 別人? いったい誰と?


――ゃぁっ! たすっ……


 押さえつけられていたモノが悲鳴をあげた。

 途中でくぐもってしまったが、明らかに人の言葉……甲高い子供の声。

 それも、幼い男の子の……妙に耳に馴染んだ声。


 まさか、これ……


 そんな思いが脳裏をよぎったとたん、再び私の意識は闇の底へと沈んで行った。


 ※ ※ ※


 耳に心地よい小鳥の声。

 眩い光に目が覚めると、そよそよと心地よい風が頬を撫でた。


「え、朝?」


 驚いて窓の外に目をやれば、もうすっかり明るくなっていた。

 子供の頃から使っていた勉強机に目をやれば、時刻は八時を回っている。


「なんだ。ただの夢ね……」


 それにしてはあまりに生々しかったが、あんな光景を現実だとは思いたくない。


「変な夢……久しぶりにお兄ちゃんの話をしたせいかしら?」


 あえて声に出して呟いて、あれはただの夢だと自分に言い聞かせた。

 そう言えば、子供の頃も似たような夢を繰り返し見ていたような気がする。


「すっかり寝坊しちゃったわ。今日は学校に行かなきゃいけないのに」


 慌てて階下に降りると、台所にあったものを適当につまんで簡単に身支度を整える。玄関を出たところで庭の手入れをしていた母とばったり会った。


「あら?もう出かけるの?」


「ええ、今日は学校にうかがう予定だから」


「そう、私ももう出勤だから、鍵は持って出てね」


「わかった、時間がないからもう行くわ。自転車借りるわよ」


「好きになさい、もともとあんたが使ってたものよ」


「は~い、行ってきます」


 慌ただしく自転車を漕ぐと、校門が見えてきたあたりでごうっと風が吹きつけてきた。ピンクの花びらに混じって小さな影が飛び出してきて……私は慌ててブレーキをかける。


「大丈夫? あら、あなた」


 きょとんとしている男の子は、やはり写真の中の兄にそっくりだ。

 昨日見た時より少し幼い気もするが、きっと気のせいだろう。


「だいじょうぶ。おねえさん、だれ?」


 幼児特有の鈴を振るような声に、思わず頬がゆるむ。

 真ん丸な瞳にみつめられ、私はしゃがんで目線を合わせた。


「はじめまして、吉田美香です。四月からこの小学校で先生になるの」


「みかせんせい? たける、もうすぐしょうがくせいなの。よろしくおねがいします!」


「たける君ね。こちらこそよろしく」


 にぱっと笑っておじぎをする愛らしい仕草に、胸の奥が温かくなる。


 小さな男の子ってどうしてこんなにかわいいんだろう?

 私もこんな風にかわいかったら、両親も兄の幻ばかり追わずに私を見てくれたのかな?


 ろくでもない考えは頭を振って追い払い、再び自転車にまたがった。


「ごめんね。先生、急いでるから、もう行くね」


「はぁい、またね!」


 ぶんぶんと手を振る武留君に手を振り返し、慌てて学校に向かう。

 幸い、待ち合わせに間に合った私は、昼過ぎには従姉からの引継ぎを済ませることができた。

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