消えた兄

 目覚めた時にはもう夕方。窓から差し込む夕陽が部屋中を茜色に染め上げていた。

 宙を舞う埃がキラキラと金色に輝いている。


「やだ、もうこんな時間……」


 床に転がっていたので全身が痛い。


「美香、お風呂わいたわよ。汗かいたでしょ、さっさと入っちゃいなさい」


 母の呑気な声に気のない返事をして風呂場に向かうと、座敷の座卓の上でアルバムが開いたままになっているのが見えた。


「あれ、この子」


「お兄ちゃんでしょ。まさか顔も忘れちゃったの?」


「そうじゃなくって……帰って来る途中にそっくりな子に会ったのよ」


 母の不審げな声に慌てて誤魔化すように言ったが、よく考えてみれば嘘ではない。


「駅を出てすぐの桜の樹のところで一人で遊んでたみたい。すぐ見えなくなっちゃったけど」


 そうか、あの時は兄にそっくりだったから意識に引っかかったのか。

 そう考えれば納得が行く。この町に帰ってきてからずっと胸につかえていたモヤモヤが、ほんの少しだけスッキリした。


「あら、武志さんとこの武留くんかしら? やだ、あの辺の川は危ないのに」


 母の顔色が悪くなる。兄が亡くなったのはあの川だ。

 あそこでは、何年かに一度、春に死亡事故が起きている。


「えっと……武志さんって、美幸ちゃんのお兄さん? お子さん、もうそんな歳なんだ」


 慌てて話題を変えてみる。

 さっき見かけた子供は九歳くらい。従兄の子供はまだ幼稚園かそこらだったはず。


「ええ、今年入学よ。帰って早々会うなんて奇遇ね」


 それでは、さっき見たのは誰だろう?

 いや、今どきの子は個人差が激しい。入学した時点で身長だけは三年生くらいある子なんて珍しくもない。


 それに一瞬のことだったもの。きっと見間違えただけだ。


「そうね、ちょっとびっくりした」


「あんたが受け持つことになったりして」


 戸惑う私に、母はいたずらっぽく笑いかけた。さっきとは違い、今度はちゃんと温もりの感じられる笑み。

 少しほっとして軽口をたたく。


「それは引継ぎしてからでないとわからないわ。まだ何年の担任になるかもわからないのよ」


「それもそうね」


「よく言うでしょ、来年の事を言えば鬼が笑うって」


「もう来月でしょ。あと二週間もないわ」


「だって来年度だもの。私にとっては来年みたいなものよ」


「ふふ、気分だけはもう先生ね。まぁいいわ、冷める前にさっさとお風呂入りなさい」


「は~い」


 つい減らず口を重ねると、母は呆れ顔になって会話を終わらせた。

 調子に乗りすぎてしまったかもしれない。


 夕飯には役所勤めの父も帰ってきて、親子三人で食卓を囲む。四年ぶりの再会は、長すぎる空白のせいか会話が弾まない。


「風、強いね」


「ああ、春の嵐だな」


「桜、散りそうだね」


「ああ。聡がいなくなったのも、こんな日だった」


 失敗した。この話題はこの家では鬼門だ。

 兄が行方不明になったのは、今日のように桜が舞い散る風の強い日だった。

 うっかり口に上らせれば、兄の話にならないわけがない。


「やめましょう。せっかく美香が帰ってきたのに」


「ああ、すまん。こんな日にはつい思い出してしまってな」


「そうね。生きていたら、どんな大人になってたかと思うと」


「どんな生き方でもいい。生きていてくれたら」


 やめようと言いつつ、兄がいたはずの未来を語る二人の視界に、私は入らない。


「ちょうど美香が熱を出して寝込んでたのよね。丸一日眠ってた」


「ああ、裏山の桜の樹の下で倒れてたんだ。そちらにかかりきりで、聡がいない事に気付くのが遅れた」


――かわいそうに。妹が熱を出していたから、すぐ気付かなかったんだ。


――一人で川になんか行かせなければ、たった九歳で死なずに済んだのに。


 ひそひそ囁かれる大人たちの声が、何度私を責めただろう。


 しかし、それはもう過去の話。

 目の前にいるこの人たちはただ嘆いているだけで、私を責めるつもりはない。事故から十五年近く経った今となっては。


 そう自分に言い聞かせ、私は無言で箸を動かし続ける。


「ごちそうさま」


「あら、食後に果物でも出そうか?」


 砂を噛むような食事を終えた私が食器を下げると、母が気まずそうに取り繕った。さすがに私の居心地の悪さは感じたのだろう。

 母の不自然な笑顔に、私も貼り付けた微笑で答えた。


「要らない。今日は疲れたからもう寝るね」


「そう? せっかく帰ってきたのに」


「ごめん、長旅で疲れちゃった。おやすみなさい」


 私がいてもいなくても変わらないでしょ。


 そんな内心を押し殺し、適当な口実を並べて自室に戻った。

 歳を重ねるごとに、言い訳ばかりがうまくなる。


 卑怯な大人になった自分に嫌気がさして、思いっきりベッドに飛び込むと、頭から布団をかぶって目を閉じた。

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