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「京都の甘味といえば、八ツ橋もあるけど阿闍梨餅っていうのもあるらしいよ。百年以上の歴史を誇る銘菓で、値段はお手頃。皮がモチモチしていて美味しいんだって」
「……結構用意周到に下調べしているのね」
清水寺の見学を終えて、スーパー銭湯に寄ってから、昼食をテイクアウトして二人で食べる。
車内の空気は、車の臭いやら石鹸の匂いやら調味料の香りやらでとにかく混沌としていた。
空腹だったのだろう、隣人の食事のペースは凄まじく、「朝はコーヒー一杯だけだったから、めちゃくちゃ美味しい」と楽しそうに笑んでいる。
どうやらこれは本心のようだ。
「あれ、モネは食べないの?」
あまり箸の進んでいない私の方を窺い見る彼に、ああ、まあ、と歯切れ悪く相槌を打った。
「……あなたが美味しそうに食べているのを見ていたら、空腹が薄れたのよ」
「なら、それ僕がもらうよ。またお腹が空いたら声掛けて。何か買おう」
じゃあお願い、と器ごと彼に手渡すと、自分の分を完食した隣人は、続けて私の分を食べ始めた。
何の反応も無かったなとぼんやり考えて、いやそもそも私たちの間にそんな初々しい何かがあったらそれはおよそ『間違っている』だろう、と思い直した。
空になった抹茶ラテのカップを覗き込む。不味かったというわけではないが、京都まで来てこれというのは虚しいものがある。次はもっと高価な抹茶スイーツでも奢ってもらおう。
隣人はほぼ二人前の弁当を食べきると「もう出よう」と呟いて、私の返事も待たずに車を走らせ始めた。
「……ちゃんと寝てる?」
「急に母親みたいなことを言い出すね」
「茶化さないで。何よ、こっちは真面目に心配してるのに」
彼が寝ているところを見たことがない。
ここ数日は運転ばかりで、ろくな睡眠がとれていないのではないのか。
こんなところで事故を起こされても困るんだけどと文句を言っても、彼はいつもの私の小言を躱すように適当に笑って流した。
この青年と出逢ったのは、まだお互いに十歳に満たない頃のことであった。
父が養子として引き取ってきたのだ。そして彼を自分の会社の後継に育てると言った。
正直なところ、今も昔も私は会社のことなんて全く興味が無くて、彼に自分の可能性が奪われることに何の抵抗感もない。
――ルーカスと言います。よろしくね、お嬢様。
今思えば既に世渡りに慣れた様子の愛想の良い笑みが、当時の私には凄く素敵に見えた。まるで召使か何かのように振る舞う彼を、兄として、数少ない友人として、色々な場所に連れまわしたものだ。
書斎で一緒に『銀河鉄道の夜』を読んでいたのもその頃だった。とても気に入って、音読をしたこともある。私がジョバンニで、彼がカムパネルラと残りの文を読んだ。
養子として我が家に来て一年も経たずに彼が海外へ渡ったから、会話はおろか、連絡さえもそれっきりであった。
彼が少し前にこちらに戻ってきたときには、私は彼の笑みが愛想笑いであることに気づける歳になっていたし、彼ももう大人になっていた。
「……あなたのメリットは何」
モネ、と彼が困ったように私の名を呼ぶ。
クロード・モネ。母の好きな画家から名前を借りたのだと、以前父が言っていた。
私と入れ替わるようにして死んだ母は、私と同じ薄茶色の髪と青い眼をしていた。
もしかすると、私も、この青年も、あの男にとっては『我が子』ではなく『妻の忘れ形見』なのかもしれない。
……正直、私の邪推であってほしい。
「私に貸しを作ったって、会社は既にあなたに譲られると決まっているし、何にもならないもの。こんなの、ハイリスク・ノーリターンじゃない。あなたらしくない」
窓の向こうは曇天だ。朝の眩しさは嘘のようで、雨が降るときの雲ではないが重苦しかった。
大きめの交差点の信号で止まる。彼がちゃんと車を静止させたのを確認してから、もう一度「ねえ」と切り出した。
「同情? 哀れみ? それとも義理堅いだけ?」
彼は苦笑のまま、表情を崩さない。
「本当にメリットが思いつかないの。何もないのなら、もういっそ今のうちに我儘でも言っちゃいなさいよ。あなた、いつも自分以外を優先するんだから」
「君が大切だからだよ」
「またそういうことを言う」
本当、そうやって人を誑かすようなことを言って、いよいよいつか刺されやしないかと心配になってくる。
はいはい、それで、と話を続けようとする私を遮って、彼は少し声を張った。
「君の想像より何倍も、僕はモネのこと想ってるよ。僕のことを、兄みたいだって、友達が出来て嬉しいって、そう言ってくれたのは君が初めてだった。生まれて初めてだったんだ」
やや間をおいてから、「大切なんだよ」と彼が呟いた。
「……あ」
喉の辺りで、「あなた、やっぱり寝不足なんじゃないの」という逃げの言葉と「ありがとう」が衝突して相殺された。一歩先に飛び出た一文字だけが、虚しく残る。
「高速道路を使うから、最初のサービスエリアで長めの休憩にしよう」
そろそろ信号も変わるだろうと、彼は視線を横から前へと戻した。その胸元に恐る恐る手を当てる。
「……ルカって、結構
あからさまに駆け足の心音が掌に伝わってきて、思わず笑ってしまった。
『――先日、■県の県立高校の女子生徒が自殺したことについて、』
隣人が、すぐさまカーナビをテレビからFMのラジオに変えたため、続きを聞き取ることはできなかった。もし聞けたとして、真正面からまともに受けきれるのかと言われても、そんな気はしない。
「……その話、今、どうなってるの」
「……君が願う『最善』には程遠いよ。実家がアレだしね」
隣人は肩をすくめて、「困ったものだよ」とぼやいた。
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