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こちらに向けられた液晶画面では、三筋の
私と隣人は、降り注ぐ朝日に目を細めながら、階段の辺りの隅に並んで座り、黙り込んでいる。
朝、目が覚めた時にはもう京都の都市部にいて、ちょうど隣人がコーヒーと抹茶ラテを持って地味な色のコンビニから戻ってくるところだった。曰く、数時間ここで仮眠をとっていたらしい。
彼は運転席に戻ってエンジンを入れてから、「寄りたいところがあるんだ」と私に微笑みを向けた。久しぶりに目があった気がして、漸く、とそれ以外に言い表しようのない安堵を覚えた。
そうして連れてこられたのが、——何がどうしてここを選ぶことになったのかさっぱりだが、清水寺だった。
「たまには寄り道もいいものでしょ。ほら、モネはいつも予定を詰めに詰めて、計画的にこなそうとするから」
「……まぁ、たまには悪くないわね、予定不和も」
素直じゃないなぁと、彼はもう慣れたと言わんばかりにくつくつと笑う。
午前六時過ぎの空気はまだ冷えていて、この時間帯には辺りを歩く人の姿もまばらで、観光地にしては静かだった。
うるさいわねと彼を咎める私も、つい声を潜めてしまう。
朝っぱらから些細なことで喧嘩だなんて、神も仏も呆れるだろう。
わざわざこの古都まで来て、巡るのは清水寺だけらしい。
たった一か所だけだなんてと思ってしまったが、彼に「君の心にそんな暇なんてないんじゃない?」と言われてしまって、確かにその通りで何も言い返せなかった。
また帰りに京都へ寄ろう、と彼は笑った。
「……静かね。近くに誰もいないなんて」
平日の朝だからだろう。ここから見渡せる限りでは二人きりだ。こんな時間帯に来るのは初めてだった。
「これは音羽の滝だね。向かって左から『延命長寿』、『恋愛成就』、『学業成就』で、この水を飲むと願いが叶うって言われている。要するに、パワースポットだ。清水っていうのは、ここの水に由来したものらしい」
「知ってるわよ、昔、父さんがくどくどと説明していたもの」
「ああ、それは失礼。今のは、君にというよりは、僕自身に言い聞かせていたんだ。なんせ、神社や寺っていうもの自体初めてだからね」
日本人とどこかの民族の混血児なのだと、彼が以前自己紹介の際にそう口にしていたのを、今になって思い出す。
確かに、筋のはっきりした鼻と化粧要らずの色白さ、それから青い眼は、元来日本人が持つ特徴とは異なっていた。日本語を喋るのがとても上手いが、漢字はあまり読めないし、つい最近まで海外で暮らしていたため、日本の宗教絡みのことは慣れていないのだ。
改めて、とんでもないことに巻き込んでしまったと、罪悪感を抱く。
「ごめんなさい」
「君の口の悪さならもう慣れたよ」
「それじゃないのよ」
彼は、「ふぅん」と静かに相槌を打って、それから私の上着のボタンを数段閉めた。別に寒いわけじゃないわと言うと、分かっているともと返ってくる。
「モネの好きなようにしてくれたらいいんだ。僕は勝手にお供しているだけ」
誰かにとっての都合の良い存在に、自分からなろうだなんて呆れて笑えもしない。
……などと憎まれ口を叩いて彼の善意も有耶無耶にしてやろうと思ったのに、彼の双眸は何故か今にも泣きそうなほど切な様子で、結局、声にできずにそのまま飲み込んでしまった。
それが不完全燃焼のまま、腹の中でとぐろを巻いているような感覚がする。
隣人が「予習してきたからエスコートさせてほしい」などと言い出したので、大人しくそれに付き合ってみることにした。寺をエスコートだなんて、滅多に聞かない単語の並びだが、あえて指摘はしない。
「エスコートも何も、一方通行で経路も決まってるのだけど」
「まあ、いいってことにしてくれないか。こういうのはノリが大切だよ」
清水の舞台から遠景を眺める。
風が吹いて木々が揺れる音に、そのまま身を委ねた。
冷えた空気が頬に触れてそのまま流れ去ってゆく。その風がどこか遠くで木の葉を揺らしている。
まるで夢を見ているようだと思った。ぼんやりとして輪郭が掴めないような、意識が遠のくような、私が景色と同化して無くなっていくような。
「モネ」
隣人の掌が私の手首を掴んだ。その感覚ははっきりとしていて、紛れもなく現実であった。
「飛び降りないでよ?」
「あなた、本当に私のこと何だと思ってるわけ? ことわざを丸呑みにする奴でもなければ、そんな死にたがりな奴でもないから」
そんな心配性じゃ杞憂で胃やられるわよ、と小突くと、「君の心配でなら本望だな」と気障ったらしいことを言うから胸焼けがした。
思ってもいないことをまるで本心からの言葉のようにさらりと言えてしまうのが、この男の嫌な点だった。彼にそういうのは求めていない。何の慰めにもならない。
「あなたの手、熱いわね。心が冷たいのかしら」
「えっ、そんなことあるの!?」
彼はすっかり真に受けて困ったようにこちらを見る。そういえば、この隣人はまだ日本での生活が浅かった。
「……冗談よ、冗談。ジャパニーズ・ジョーク」
「な、なるほど……」
「ほら、エスコート、続けるんでしょう?」
私が手を差し出すと、彼は一瞬で普段の調子に戻って、微笑んで己の手を重ねた。
彼の先導に従って、足を動かす。けれど、心はまだどこか遠くにあった。
――悪魔かと思ったの。
体育の授業からの帰りに、彼女はいきなりそんなことを口にした。
体育はいつも見学で、ずっと長い丈のジャージを着用していた彼女は、いつも青白い肌をしていた。黒く艶のあるよく手入れされた長髪と眉下で一直線になっている前髪。
彼女はさながら日本人形のようで、それはもう親に大切に育てられたいわゆる『箱入り娘』なのだろうと、そうでない可能性を疑う余地も残されていなかった。
――悪魔?
――……あのね、ウチには『あなたに優しい言葉をかける人は皆、あなたを善の道から蹴落とす悪魔である』っていう教えがあるんだ。望音ちゃんと初めて会ったとき、怪我してた私に絆創膏をくれたし、保健室まで連れて行ってくれて、こんな私に親切にしてくれたでしょ。だけど……いや、だからかな、もし本当に悪魔だったとしても望音ちゃんならいいやって思ったんだ。
彼女は人形よりももっと綺麗な笑顔をこちらに向ける。それが異様なほど眩しくて、けれど目を逸らすことも伏せることもできなかった。
――ずっと苦手だった。両親のことも、親戚も、あの町も。それに、ようやく気づけて、肯定することができた。……望音ちゃんのおかげだなぁ。やっぱり、悪魔なんかじゃなかった。
——そう。
私の素気ない相槌に、彼女は「そうだよ」と頷く。彼女のが
——あなたも物好きね、歌留多。
歌留多の実家は、この学校からずっと遠くの田舎にある。
ホラー映画に出てきそうな土着信仰のある村で、彼女の家は代々神官を務めているらしい。
私にとっては何とも現実味の無い噂であったが、本人に尋ねたらその噂の通りだと肯定されてしまった。
彼女が頑なに肌の多くを見せないのは、宗教関係のタトゥーが入っているから。彼女についてのあまり良くない印象の噂が広がっていて、しかもどれも嘘ではないというのは、『神様が試練を与えている』から。
歌留多は、植え付けられた異様さを時折垣間見せてくる。けれど、彼女の本質は、ひたすらに眩しい年相応の少女だった。
「……あの子は多分、ここには来られないわね」
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