真綿の星

雨森透

1

「空が青いねぇ」


 狭い軽自動車を走らせながら、隣の青年は当然のことをさも珍しいことのように何度も繰り返し呟いていた。十中八九、話題が尽きて困っているのだろう。

 表情ひとつ変えず僅かにへらりと笑んだままの隣人を一瞥して、私は横の窓から見える景色をぼんやりと眺める。


 うねる崖道を進む。両脇を山壁と海に挟まれ、舗装もされていない荒れた道であるから、乗り心地は言うまでもなく最悪だ。

 窓を開け、やや身を乗り出して覗き込むと、水面はかなり下にあった。ここから落ちたらひとたまりもなさそうだ。

 楽に死ねそう、なんて考えていたら、隣人が若干焦った様子で私の右腕を引いた。


「ちょっと、早まらないでよ」

「何言ってるのよ、するわけないでしょ」


 考えていたことがそのまま口に出ていたのか、あるいは彼が察したのか。分からないまま、私は大人しく窓を閉めた。

 車の冷房が首筋を撫でていく。

 春にしては少し暑かった。じきに夏が来るのだろうと、否が応でもそう考えさせられた。


「本当、乗り心地最悪ね。アスファルトも敷かれていないなんて」

「あとで美味しいもの食べようか」


 だから今は我慢してくれと、隣人は苦笑した。美食で機嫌が取れるような奴だと思われているのはあまり良い気がしないが、道の荒れようは彼が悪いわけではないので仕方ない。

 本当に最悪なのは、この隣人でも荒れた崖道でもなく、どうしようもない私だ。

 本来無関係のはずだったこの青年を巻き込んで、今に至るまで逃避行に付き合わせている。


「……抹茶系がいい」

「はいはい、お任せあれ」


 彼は行き先も告げずに、どこかへ車を走らせている。それでよかった。

 今は、目的地がない方がずっと楽だ。




 いつの間にか眠っていたようで、目を開くと車内は真っ暗であった。

 すっかり夜だ。車のヘッドライトが道を照らしているが、この辺りは整備されているようで、座席のシートからあの不快感を受け取ることは無かった。

 車の時計は二十三時過ぎだと示している。


「天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです」


 カーナビの青白い光にうっすらと照らされた青年は、まっすぐ前を見たまま静かに呟いた。


「……それ、銀河鉄道の夜?」

「あ、起きてた」


 ついさっきまで寝てたのにと、隣人は気まずそうに左手で頭を掻く。


「よく分かったね。お気に入りの物語だからさ、読みすぎて、序盤はだいたい暗記してて。ふとした時に、急に声に出したくなるんだよね」


 幼い頃に読んだことがあった。

 父の書斎には経営学だとか難しい内容のものばかりが保管されていたが、ただ一冊だけ小説がしまわれていたのだ。それが、『銀河鉄道の夜』。こっそり書斎に通ってそれを読み進めるのが、当時の楽しみの一つだった。


「私も好きよ、その本」


 そうかい、それはいいな、と彼は割と嬉しそうに笑む。

 視線はこちらに寄越さない。夜の崖道ほど危険な道路はないだろうから、むしろこちらに視線を向けられたら困る。

 私は隣人を見つめるのをやめて、また窓の向こうを眺めた。

 今度は窓を開けたりはしなかった。深い藍の空に、これでもかというほどの数の星光が浮かんでいる。それが、海の水面にも反射して、ひたすらに眩しい。

 一言で「明るい」と表現しても、街とはまったく真逆のさまだ。

 山もいいもんだねぇと、隣人はまた空についての独り言を零していた。


「こんな危なっかしい道を、真夜中に通るなんて」

「ふふ、心配かけて悪いね。あと少しで崖から逸れるから、それまでの辛抱だ」


 ラジオの電波は入ってこず、代わりに吹き荒ぶノイズが静寂を緩和していた。


 ――私の故郷は星が凄いんだ。都会の夜景もいいけれど、いつか望音もねちゃんにもあの満天の星空を見てほしいなぁ。


 下校途中に寄った公園で、無垢な笑みを浮かべた少女がにこりと笑んだ。

 そんな過ぎたことを反芻して、未だに苛まれる。


「……あの子の故郷の空も、こうなのかしら」


 溜息とともに吐き出した小さな独り言に、隣人はブレーキを踏んで、車は緩やかに減速し、しまいには動きを止めた。


「……寝なよ、モネ。夜は、悪い方にばかり考えてしまうから」


 頑なにこちらを見ない。彼の少し長い横髪は、暗闇の中で僅かな揺れすらもせず、その奥にある表情を見せてはくれなかった。


「それもそうね」


 返事をしたのが自分自身だということに遅れて気づくほど、掠れて疲れ切った声色をしていた。

 私の肯定の言葉に、それでいいと言わんばかりに、再び車が前進する。

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