第1話 ひょいひょいメット⑥

 ざわり、と肌が粟立あわだち、悪寒おかんが走った。空気が一変いっぺんして重く沈み、背筋が凍る。途端とたんに吐く息は白くなり、巨大な圧を背後から感じた。恐る恐る肩越かたごしに振り返ると、強く拳を握りしめたまま、アイツはうつむいて立ち尽くしていた。泣いているのではなく、明らかに怒っていると断言できる。何故なぜなら、目に見える程の殺気を放っていたからだ。

 その余りにも強い殺気によって、周囲に取り巻く景色は蜃気楼しんきろうのようにゆがんで見え、こがね色に輝く髪の毛先は、ふわりふわりと、浮き沈みを繰り返す。砂塵さじんや小石が宙を浮き、不穏な風がうずを巻く。暗雲あんうんが立ち込め、不気味な鳴動が大気にとどろき、謎の放電現象ほうでんげんしょういたる所で発生する。

 その怪奇現象の中心にたたずむ舞姫が、ゆらりゆらりと独特なリズムで体を左右にらし始めた。緩急かんきゅうの付いた横の動きは、次第に大きなはばを持ち、繰り返す度にその幅が増大して行く。それに伴い、赤い光りを放つ怒りの眼差まなざしが、尾を引いて軌跡きせきを残し始める。最後には残像が生まれ、鬼と化した舞姫が一人また一人と増えていく。

 ――ヤバイ、ヤバイぞ! これ、絶対ぜったいられる系の奥義だ!

 戦慄せんりつが走り、身の毛がよだつ。本能が警告する。命の危機をうったえている。にも関わらず、その忠告とは裏腹に、身体はすくみ委縮いしゅくする。力が全く入らず、呼吸すらままならない。蛇に睨まれたカエルのように、逃げ出す事も出来ないでいる。

 リアルな死が――脳裏のうりぎった。

 途端とたんに全身は高速に打震うちふるえ、歯の根は合わずガチガチガチガチと不快な音を打ち鳴らす。

 気付けば分身は数を増し、こちらを取り囲むまでになっていた。

 赤い目をした鬼たちが、徐々に、徐々に、円を描き近づいて来る。

 その分身に目をてんじながら、かまえを取るが間合いが全くつかめない。技の所為せいなのか、恐怖の所為せいなのか、完全に距離感を喪失そうしつしていた。

 愕然がくぜんとする状況から逃れようと、無意識に叫びながら出鱈目でたらめに腕を振り回す。が、れかぶれに出した拳が当たるはずもなく、悠然ゆうぜんと鬼はせまり近づいて来る。ついには恐怖が臨界点を超え、パニックにおちいった。意味不明な言葉を叫びながら、両の腕で顔をおおい、目を硬く閉じる――その瞬間。

 ズンッという衝撃が下腹部から響く。まぶたを上げて、そこに目をると、鬼のひざが金的にめり込み、自分の足が地面から浮いてた。途端とたんに血の気が引いて、蒼褪あおざめる。痛みを超えた痛みが、次第に認識できる痛みへと変わっていくと、可聴域かちょういきを超えた叫声きょうせいを天に向かって咆哮ほうこうする。その咆哮ほうこうは立ち込めていた暗雲あんうんにぽっかりと穴を開けた。その後、雄叫おたけびとも、絶叫ぜっきょうとも、悲鳴ひめいとも取れる、名状めいじょうしがたい音吐おんとを発しながら、恥や外聞がいぶんなどおかまいなしに、狂ったようにのた打ち回り、よだれや涙をまき散らす。全身はおかしな痙攣けいれんを繰り返し、肺から吐き出す空気がなくなると、口の端から泡が立ってこぼれ出た。

 鬼はそんな男のかたわらに立ち高々たかだか見下みおろす。そして、情け容赦ようしゃのないとどめの鉄拳を顔面に叩き込んで、颯爽さっそうと帰って行った。

 遠退とおのく意識の中で、

 ――道具を悪用すると、ろくな事にならないな……。

 と、身にみて痛感した。

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