第1話 ひょいひょいメット⑤

 どちらの攻撃も当たらない、そんな戦いを小一時間続けた結果。えずめにてっした女の体力は見るからに消耗しょうもうしていた。キレのあった動きも精彩せいさいき、疲労ひろうを隠せず肩で息をしている。反応もにぶり、こちらのこぶしが届くまであと一歩という状況が何度か続いた。持久戦じきゅうせんに持ち込み、さらに体力をけずれば、赤子の手をひねるように仕留しとめるのは容易ようい、なはずだった。完璧な勝ちすじい出したにも関らず、その作戦を選択できないでいる理由――それは、こちらが思いがけない窮地きゅうちに立たされていたからだった。

 意識が朦朧もうろうとして判然はんぜんとしない。頭重感ずじゅうかんひどく、目がくらむ。視野が狭窄きょうさくして、視界の端にモヤが掛かる。極度の困憊こんぱいにより、動悸どうきが激しく息苦しい。顔は青ざめ脂汗が止まらない。絶えず平衡器官へいこうきかんを刺激され、自律神経系じりつしんけいが異常をきたしていた。

 つまり、――思いっきりったのだ。

 ぐるぐるぐるぐると目が回る。胃から内容物がせり上がり気持ち悪い。吐き気をこらえ呼吸をととのえようとするが、息する度に頭が痛む。女が攻撃する度に、三半規管さんはんきかんり動かされ、地獄のような状態が延々と繰り返された。

 過大かだいもった悪心おしん進退しんたいきわまり、とうとう我慢できず道具をかなぐり捨てる。そして、極限まで高められた吐き気を解き放って、汚い音と共に、盛大に胃の内容物を噴射ふんしゃした。

 大量のしゃ物で、のど圧迫あっぱくされて息が出来ない。流出するゲロの舌触りが不快感を助長じょちょうする。苦しくて涙がこぼれても、嘔吐おうとは止まず、吐いて、吐いて、吐きまくった。

 ようやく全てを吐き終わり、すえた匂いがただよう中で、力なくゆっくり顔を上げると、ちゅうかろやかに飛び上がる女の姿が視界に入った。はためくスカートの裾から伸びる白い足が、大きな弧を描いてはなたれる。そのするどりは的確に顔面をとらえて、容赦ようしゃなく振り抜かれた。

 もろに入った強烈な飛び胴回どうまわり ―― 瞬時に頭がはじかれ、衝撃がしんつらぬく。凄絶せいぜつな痛みと共に、視界は涙でにじんでチカチカと明滅した。鼻っ柱は見事に打ち抜かれ、大量の鼻血がれて落ちる。腰が砕けてよろめくのを、何とかみとどめようと、やみくもに手を伸ばす。

 その時、とどめをすべく近づいた女の『何か』に偶然手が掛かり、なるままにそれをつかんだ。

 女は「あっ」と可愛らしい声を上げて、慌てて頭を押さえるが、時すでに遅く、つかんだ何かはこちらの手の中にあった。それがヘッドフォンだと気付き、驚きの眼差まなざしを女に向ける。

 その時 ―― 風が吹いた。

 その風は、全てをかき消す風だった。

 汚物の臭気も、激しい痛みも、視界の明滅も、強い疲労も、目的も、思考も、感情も、感覚も、全てが綺麗に吹き飛んだ。

 その風の先に、本当のアイツ の姿があった。

 恥ずかしさに白い頬を赤く染め、頭を押さえたままの格好で、クリッとした瞳をこちらに向けてくる。を浴びた栗毛色の髪は、こがね色の光をまときらめく。そこから突き出る白く美しい耳は、輝く髪とあいまって神秘的な雰囲気をかもし出していた。

 目に映るその姿に心奪われ、ただただほうける事しかできなかった。

「返せ……」

 弱弱しくこぼれたその言葉で、遠く彼方かなたに飛ばされた意識が戻って来る。それから、何かを誤魔化ごまかすように強く叫んだ。 

「こんなの似合にあわねぇんだよ! 隠すなよ!」

 そして、手にあるヘッドフォンを出来るだけ遠ざけようと、自分の後方へ大きく投げ捨てた――その直後。

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