第16話 出家ではなく冒険、出奔

もはや月が月でなくなり、青年哲学にすぎなかった厭世と求道が、無力なおのれへの自己嫌悪とともににわかに現実味を帯びて来た。自己保身争いの宮廷への嫌悪とも合わせ、またさすがに中宮との密通へのお沙汰が思いやられもし、前記近親の2人の死もかさなって「出家GO」とあいなったのだろう。ただし、である。では義清が死出の旅のごとく悲痛きわまりない思いでそれを為したのかというと、それは疑問符を呈さざるを得ない。中世自由人につながる、能因法師以来の、出家というよりはそれに名を借りた遊行詩人願望が彼の中にもともとあって、ひょっとしたらそれが一番強かったかも知れないのだ。それをなし得る受領階級の身だったからこそだが、しかし仏教の厭世と悟りにかこつけてそれを画策するとは、これは義清の傲慢と云うか、不遜のそしりを些かでも免れ得まい。後世小林秀雄が「(西行が)世を捨てた人物とはとても思われない。むしろ出家を新たな挑戦、冒険とでも捉えているようだ」と論評しているが、まさに宗教人、遊行歌人として新たな人生に挑む青年佐藤義清の意気込みがそこにはあったと思う。璋子の「数奇者め」は奇しくもそれを見取っての言と思われるがそのことと、今眼前に見る春子と花子、すなわちわが妻と娘の存在はさすがの義清をも花散らす一陣の風となって攻め苛むのだった。いったいどう義清は妻春子に言いわけをしたものだろうか。2人への扶持を確約したとは云え若妻にとってはむごすぎる義清の勝手ではあった。この当時貴族階級において突然夫が妻に‘裏の衣を見せる’つまり出家すると云い出すことがあったとも当時の和歌には綴られている。

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