暗い春

大和田光也

第1話


        『暗い春』

                        大和田光也


 雪が降っている。黒い空間に、僕の青春の奇異さの象徴のように白が舞っている。

 午後九時。宇和島港発、別府行き観光便・別府丸の出港だ。汽笛が鳴る。ドラが鳴る。『蛍の光』が流れる。

 僕は、この便に乗船するのが何回目なのか数えられない。高校一年の夏、体に異常を感じて以来、その病気の専門だという別府の病院に通い続けている。そして今は、間もなく卒業式を迎えようとしている。

 夏であれば人の多い、吹きさらしのデッキに今、 僕は一人で立っている。雪の中、出て来る者など誰もいない。船はゆっくりとバックで岸壁から離れる。港の常夜灯に無数の雪片が浮かび上がる。冬場、何度こんな光景を見たことか。体の芯まで冷える。

  僕はいったい今まで、何をしてきただろう。一年の一学期までは良かった。皆と一緒に体育ができたし、飛び回って遊んだ。それが、高校生最初の夏休みに、仲間と一緒に登山をしてから体の調子がおかしくなる。

 父や母に、あちらこちらの病院に連れて行ってもらって、やっと見つけた専門の病院というのが別府にあった。それ以来、毎月の病院通いが生活の中心になってしまう。 二年半も通院しているのにいまだに治らない。

 宇和島市は愛媛県の南、予讃線の終着の町だ。それでも、冬季には雪が降るし、かなり冷える。

 船はバックするのを止め、しばらく静かになり、それから前進しようとするエンジンの振動が激しくなる。真っ暗な沖に向けて力強く進み始める。頭や顔に綿のような雪が、吹き付けてくる。学生服一面にへばりついた雪は、全く、溶ける気配はしない。

 それでも、僕はデッキに立っている。 三年間、病気に悩まされてきて、体も心もボロボロにになったと思う。体重は発病した時からほとんど変わっていない。食事は普通に食べるのだけれど、一向に体重は増えない。身長は伸びているので、やせ細っている。鏡で見ると、首の前の部分が不自然に膨れて、眼球が出目金のようになっている。

 目の中の瞳をよく見ると異様な鋭い光がある。それは、滅びに向かう僕の肉体や精神とは別に、時間の経過のない静かさの中で、客観的に僕自身を見つめているもう一つの目のように思える。僕の命の中にもう一人の自分がいるような気持ちだ。

 別府丸は規則正しい音と振動で通常の前進速度になる。雪が落ちては、一瞬に消える暗い海面に、白い波が、沖に出るにつれて大きくなり、激しくなり、そして怒涛のようになってくる。雪混じりの風が横殴りに顔に当たる。

 どうやら、ぼくは医者にも、父にも母にも、だまされているような気がする。考えてみるとおかしい。初めて別府の病院に行った時、医師は「 二、三ヶ月で治る」と言った。父も「ほんの少し体調が狂っているだけだから、すぐに治る」と喜んで見せた。

 それが、二か月たっても三ヶ月たっても、いっこうに治らない。その間、医者は「ほとんど治っている。病気だ、病気だ、と思う必要はない」と確信ありげに言う。その後は病院に行く度に「あと一ヶ月で治る。いや、もう治っている」と、そんなことばかり聴かされながら、卒業の時期になってしまった。

 高校生の間、楽しい事は何もない。体育の実技はいつも、見学だ。皆が走り回ったり、泳いだりしているのに、部外者のように一人で見ている。ふさぎこんでばかりいた。皆と一緒に遊べないから、友達だって、次々と離れていく。

 動悸はずっと続いているし、いつも風邪を引いているようだし、おまけに手が震えて仕方がない。ドリンクを飲む時なんか、 容器が前歯にガタガタと当たり、こぼれてしまう。

さらに心の状況は激動を繰り返している。特に最近は、魂が自分の肉体から抜けてしまうのではないかという不安に駆られている。少しでも油断をすると、体から抜けた魂が大気圏はおろか、宇宙のかなたにまで飛んでいって、帰ってこなくなるように思える。魂の抜けた自分は人間でも動物でもなく、感情のない無用な抜け殻だ。抜け殻は踏みつぶされて粉々になったとしても、仕方のない存在だ。もしそうなったら、再び魂が帰って来ようとした時に宿るべき肉体がなくなり、僕の存在は消滅するように感じる。それはちょうど、断崖絶壁から飛び降りた時、肉体から離れた自分の魂を、死の底へ落ちてゆく肉体から見ているような恐怖だ。

肉体から魂が飛び出すのを防ぐ方法は、肉体に苦痛を与えることが最も効果的だ。痛みを感じるためには魂が必要だから、肉体が痛むと出て行こうとした魂が戻ってくる。これが実感だ。だから、魂喪失の恐怖に襲われるといつも、太ももを思い切りつねる。それで、僕の両方の太ももには、無数のつねった痣(あざ)が残っている。ある時、それを母に見つかったことがある。母は今までに見せたことのない悲しい表情をした。

 こんな状態がいつまで続くのだろうか。一生涯、続くのだろうか。結婚もできない。

 船は宇和海に出ている。うねりがある。船体が上下にゆっくりと大きく動く。船首では、地響きのような音と高く飛び上がる飛沫が規則正しく繰り返される。風の具合で、顔に飛沫がかかる。海面近くまで落ちた雪が突然、舞い上がったりする。

 僕は悪寒を感じてきたので、船室に降りて行く。暖房はしているが、それがかえって気分を悪くさせる。エンジン室に近い部屋なので、連続した振動と音が耐えがたく感じられる。以前に辛抱をして眠ったことがある。翌朝、肋骨全体が痛み 一日中、治らなかった。

 船室係が来る。僕は、父がいつもしていたようにチップを渡す。船室係は、何も言わずに「あとについておいで」という仕草をする。ついて行くと、階段を何カ所か上がり、操舵室に近い客室に案内してくれる。エンジンの音も振動もほとんどなく、客も少なく落ち着いた部屋だ。僕が肋骨を痛めた後からは、父がいつもチップを渡して、快適な部屋で眠れるようにしてくれている。

 これまでの通院は、すべて父が連れて行ってくれた。今回は初めて、僕一人の旅だ。「大学に行けば、 一人で生きていかなければいけない。今度の通院はその練習だ」ということだった。

 船室係がお茶とお菓子を持ってくる。微熱の続く体は、熱いお茶に心まで慰められる。お菓子も美味しい。うどんを食べている客もいるが、そんな食欲はない。

 すぐに毛布を頭までかぶって寝る。船のゆっくりとした、それでいて気持ちを悪くする動きが、起きている時よりもはっきりと感じられる。部屋の人為的な暖かさと体温とが妙に溶け合わず、頭が重くなり、吐き気がする。毛布に吐く息の熱が顔に広がり、それが気になって眠れない。

 いろいろな事が頭に浮かんでは消える。過去の事、未来の事。両親の事、好きなクラスの女の子の事。病気の事、人生の事。次から次に、止まるところを知らない流れのように考える事が尽きない。

 でも、考えに考えて、精神も体も疲れ果て、大きな息を一つ吐き出して、ふと現実に返って、病院に通っている自分を見出したとき、感じる事はいつも同じだ。生きていくことのつらさだ。

 これまでは、なんとか、医師にだまされながら、両親に守られながら、将来にかすかな希望でも持ちながら生きることができた。でも、もうそろそろ疲れてくる。

 まもなく卒業になるけれど、クラスの者はほとんど、滑り止めは合格している。レベルのより高い大学を目指して必死になっている

 僕は私立大学を五校受けた。 四校の結果が分かっているけれど、すべて不合格だ。あと一校は、明日の午後が合格発表だ。それがダメなら、国立大学が残るだけなので、受験したって合格する訳がない。とにかく、受験勉強ができるiような精神状態ではないだけに明日、不合格だったら絶望的だ。

 僕は頭の中がグチャグチャになるような思考のなかで、ウトウトしていた。そして、夢とも現実ともつかない意識の中で、八幡浜港に着くのを感じた。それからは、気持ちの悪い浅い眠りについた。

 目を覚ました時は大分港に着いていた。乗客はほとんど起きている。三十分もすれば別府港に着くはずだ。船室係がお茶と昨夜と違うお菓子を持ってくる。「いりません」と言うと、変な顔をする。診察の日の朝は何も食べてはいけない。お茶を飲むことも禁じられている。血液の検査や基礎代謝の数値に影響するらしい。

 僕はデッキに出てみる。まだ真っ暗だ。雪は止んでいる。しばらくすると、昨夜と同じように汽笛が鳴る。太い鈍い音が、眠っている大分の街に染み渡る。そして、その音が逃げ出して来たようにこだまが返ってくる。すぐにエンジンの音が大きくなり、別府へ向かって出港する。


           *


 薄暗い病院の玄関前でタクシーが止まる。建物は大きいが、古い木造の校舎のようだ。周囲には人影もなければ、物音もしない。明けかけた冷たい空気の中に、街路灯の光が凍っている。タクシーの動きだけが、この固形の空気を破る唯一のものだ。

 僕は車から降りると、きしむ玄関の両開きのドアを引いて中へ入る。薄暗い蛍光灯がわびしく灯っている。中央に真っ直ぐに奥に続く廊下がある。今までに何度もここで靴を脱いで待合室に入った。だけど、一度として何も抵抗を感じずにそうしたことはない。ここにはいつも、僕を受け入れない何ものかがある。

 廊下を進むと右側に受付窓口がある。カーテンがかけられていて誰もいない。横にあるポストのような口の中に診察券を放り込む。左側が待合室になっている。うっとうしい気持ちになって中に入る。畳敷きの部屋は虚無のように静まりかえっている。三十畳ほどの広さで、真ん中に石油ストーブが置かれている。電灯もついていないから、誰も患者はいないはずだ。ただ、暗くて隅の方はよく見えない。

 壁には異様な白黒写真が何枚となく貼っている。それが薄暗さのため、いっそう不気味に感じられる。僕は、入口に近い写真から一枚一枚、入念に見はじめる。いつも、こうする。そうしないと気分が落ち着かないのだ。

 最初の写真は、女性の首から上を写している。喉仏あたりが普通の人の二倍くらいに膨れ上がっている。そして、目が飛び出している。写真の下に説明書きがあるが、暗くてよく見えない。次の写真は、同じ人物のようだけど、目もへこみ、首も普通の大きさになっている。ただ、首の周りに縄で絞められたあざのような生々しい傷跡がある。下の小さな写真にはドロドロとした内臓のようなものが写っている。同じようなパターンの写真が続いている。微妙な病状の違いを説明しているようだ。

 片側の壁の写真を見終わって、反対側のも見ようとした時、足が何か柔らかいものを軽く蹴ってしまう。よく見ると黒いコートを頭からすっぽりと被って寝ている人間だった。コートが少し動いただけで、また、何事もなかったように動く気配がなくなる。それどころか、人間の気配さえしなくなる。本当に人間なのかとよく見ると、間違いなく人間の形にコートが盛り上がっている。無生物の黒い布の下に生きている人間が居るとは思えない。

 ゆっくりと時間をかけて、すべての写真を見終える。いつもは、自分よりもはるかに重い患者がいて、それが治っているのを見ると安堵感が出るのに、今日に限って落ち着かない。それどころか、めまいがしてくる。立っているのさえ辛くなってくる。その場に座り込む。

 気分は一向に良くならない。冷気が体から熱を奪い取ってしまうように思われた時、急に胸が悪くなり、泡のようなものを畳の上に吐く。それを拭き取る気力さえない。ふんわりした物の上に座っているような気がしてくる。

 気が遠くなるように感じた時、横に倒れてしまう。朦朧とした意識の中で、頬に触れる畳のひんやりとした冷たさが、唯一の現実のように感じられる。

 しばらく、意識を失うようになっていたが、やがて、部屋の様子が分かるようになってきた。

 急速に明るくなる。朝日が窓ガラスから差し込んでくる。よく晴れているようだ。誰かが部屋の中に入ってくる。事務所の人だ。ストーブに火をつけて、僕の顔の前を通り過ぎる。ほのかな人間の体臭と石油の刺激臭が交じり合う。

 部屋に明るさが満ちると、次から次に患者が入ってくる。頭の近くに誰か座る。背中に脛が当たる。足を動かされる。体の至る所が他の患者と接触するようになる。テレビがつけられる。あちらこちらの話し声が急に大きくなる。僕も起き上がる。眩しいほど明るい。部屋は患者でいっぱいだ。頭がズキズキと痛い。

 「この病気は風土病だから治らない」「もう、二十五年間も通院している」こんな会話が耳に入ってくる。 僕の実感も治るとは思えない。二年以上、薬を飲み続けているのに、いっこうに良くならない。一生涯、治らない証拠だ。それなのに医師はすぐに治るようなことを言う。僕をだましているに違いない。その上、様々な薬を処方して、僕の症状を検査し、研究材料にしているに違いない。

 今日は父もいないから、はっきりと医師に確認しよう。治るのか治らないのかと。そして治らないのであれば、もう、通院するのはやめよう。貴重な青春時代の無駄でしかないから。

 診療時間開始の九時になると、すぐに僕の名前が呼ばれる。早く来た者順になっている。医師の診察は最後で、それまでに様々な検査をする。中央の廊下の左右に検査室が何部屋も並んでいる。それを順番に回る。

 採血室のところに入ると、怖い顔をした看護師がいる。恐る恐る手を出すと「もっと手を出して」と荒っぽく引っ張る。僕は針を刺される痛さが辛い。それに血を吸い取られるのも怖い。以前、自分の血管から血を抜かれているのを見て、貧血を起こして気を失ったことがある。それ以来、決して腕を見ないことにしている。

 「ちょっとチクリとするよ」と言って針を刺したが、刺した針を血管を探すようにグリグリと動かす。飛び上がるほど痛い。「ごめんねー。失敗したから、もう一度やるよ」と気楽に言う。僕は緊張で気分が悪くなる。そんなことはお構いなしに、再び針を刺す。今度は血管に刺さった。「こんなに血管が見えづらい人は知らないわ」悪いのはあくまでも僕であるような言い方をする。でも、確かに僕の腕には血管がない。力作業など一切していないので、血管が細いのだろう。

 次の検査は基礎代謝だ。ベッドに横になると洗濯バサミのようなもので鼻を挟まれる。それから、唇に密着する管をくわえさせられる。これで、吐いたり吸ったりする息はすべて管を通して検査される。二人の看護師が担当している。患者が高校生だから文句を言わないだろう、とナメているのか、二人で雑談に夢中になる。十分間ほどの検査だが、非常に息苦しく感じる。吸っても吸っても楽にならない。まるで、酸素を抜いた空気を吸っているようだ。

 僕が川で溺れて助けを求めている時、すぐそばに二人の看護師がいる。ところが、僕に気付かずに楽しそうにしゃべりに夢中になっている。僕は窒息死する恐怖に襲われる。そんなイメージが湧いてくる。規定の時間が過ぎて、口から管が取り除かれると、溺れている者が救われた気持ちになる。

 全部の検査が終わると、身も心も傷だらけのようになる。医師の診察まで、待合室で待機することになる。遠い昔に来たことがあるような感覚になりながら待合室に入る。人数はかなり減っている。皆、検査に行っているのだろう。 前と同じあたりに座る。ふと畳を見ると、薄いしみが付いている。注意しないと分からないくらいぼやけている。今朝、吐いた自分の胃液だ。

 その乾燥した輪郭をぼんやり見つめる。最初は網膜に実物と同じ大きさに映る。それから見る見るうちに大きくなる。やがてしみ全体が網膜からはみ出す。さらに、ますます拡大されていく。そうすると極端に大きくなった畳の目が心臓の鼓動に合わせて、右に左に上に下にビクビク動く。網膜を破り、脳に食い入ってきそうな気がする。

 僕は生き物にでも触れるように、震える指でそっとしみをさすってみる。細かな凹凸のある畳の目が指先に感じられる。

 診察室から僕の名前が呼ばれる。入ると、頭の大きな担当の医師が座っている。いつもは父と一緒だから、日頃の体調や疑問に思うことは、父に伝えていて、すべて父が医師とやりとりをして診察が終わる。僕と医師が直接、話を交わすことはほとんどない。僕は家族以外の人間が側にいると、極端に緊張する癖がある。会話など、とてもできない。

 でも今日は、父がいない。直接、医師に治るのか治らないのか、はっきり聴きたい。「体調はどうだい?」と尋ねてくれるのを待つ。自分から先に話し始めることなどは考えてもみない。医師は父と話をする時は機嫌が良かったけれど、今日は僕が一人なのを見て不機嫌な顔になる。僕の神経質で生意気そうな顔を見て気分を害したに違いない。何も言わずに、検査結果だろうか、書類を見ている。そして「特に変わったこともないねぇ。同じ薬を出しておくよ。ハイ、もういいよ」と無愛想に言う。

 このままで帰ったら、何をしに来たのか分からない。僕は意を決して「治るのですか? 」と聞いた。声がかすれて震える。「そんなこと、はっきりとは分からないよ。とにかく、無理をしないように」と面倒くさそうに言う。体格の良い看護師が僕の腕をつかみ、立ち上がらせて、出口の方へ引いて行く。少し抵抗すると、何倍もの力で引きずられる。

 看護師は腕を強く握ったまま、待合室まで連れて行き、座らせる。どうやら、僕がフラフラしているようだ。「会計でお金を払って、薬をもらってから帰るのよ」と子どもにでも話すような言い方をする。

 体全体が絶望感のようなものに締め付けられる。やはり治らないのだ。三年近く薬を飲んでも、いっこうに良くならない。友達と一緒に校内の階段を上ると、僕だけがすぐに息苦しくなって遅れてしまう。体温も常に三十七度以上ある。考えれば、治ると思う方が能天気だ。それならもう、薬もいらない、通院する必要もない。あまりにも苦しみが続きすぎる。

 僕は会計窓口にも寄らず、薬も受け取らずに病院を出る。いつものように客待ちのタクシーに乗る。別府港への途中、見晴らしの良い小高い丘を走ると、街中のあちらこちらから、温泉の白い湯煙が立ち昇っている。昨夜とは違って、よく晴れて、風も穏やかだ。白煙は大小様々なものが、ほぼ真っ直ぐに伸びている。それらの白煙は、まるで『地獄めぐり」の巨大な鬼の獄卒が、口から吐き出す怒りの噴出のように思われる。


             *


 汽笛が鳴る。ドラが鳴る。『蛍の光』が流れる。昨夜と同じ出港の風景だ。船も同じ別府丸だ。ただ、明るい日差しが照っている。僕はまたデッキに出る。日差しはあるけれど、やはり寒いので、誰も出て来ている者はいない。別府湾は奥行きのある広大な広さの良港だ。波も小さく、船は安定して進む。

 はるか前方には、四国の佐田岬が見える。左右には遠くに陸地と、所々に小さな建物の密集地が見える。沖を通る、かなり大きいと思える船がミニチュアのように見える。海の存在感に対すると船は芥子粒のようだ。その対比があまりにも不均衡で、あの中に人間がいるのかと思うと心もとなく感じる。

 今目の前にしているこの自然に、何か畏敬の念が出てくる。偉大な自然だと思えてくる。考えれば二十年や三十年、否、百年や二百年の歳月など大自然にとっては変化の節目にはならない。そんな悠久の自然を感じると、自然と一体になりたいと思えてくる。そうすると心が無限に広がるような気がする。宇和島での日常生活が別世界のことのように思える。さらに病気のことさえも、どうでもいいように思える。このまま自然の中で、自然のうちに死んでいったとしても何の違和感もないように思える。そして、死んだ後も僕は自然と共に存在するのではないかという気がしてくる。

 「うどんの準備ができました。売店に来てください」とデッキのラッパスピーカーから無愛想な若い女の声が響く。その瞬間に、現実に引き戻されたような気になる。すぐに「自然と一体になるなんて、逃げているだけよ」ともう一人の自分がつぶやくのが聞こえる。

 食欲など無かったけれど、うどんなら食べられる。そう思って、売店のフロアに降りて行く。長椅子が多く並べられている船室で、客はまばらだ。いずれも常連客らしく、思い思いの格好で椅子に横になっている。

 売店は船室の後ろにある。売店といっても一坪ほどの広さで、周囲に雑多なものを並べて囲っているだけだ。その中で、僕より二、三才くらい上の女性店員が一人で、のんびりした手つきでうどんを作っている。調理器具などは家庭のものと変わりない。顔をみると、化粧などしていなくて純朴そのものだ。自然と共に生活している人間の自然な姿だ。スピーカーからの声はこの店員に違いない。

 店員は客に対してまだ充分に挨拶もできないようで、出来たうどんを無造作に僕の前に出す。こんな女性の姿に引き付けられるものを感じる。僕もこんな船の、こんな小さな売店で一生、うどんを作っていたら、どれほど幸せなことだろうか、と思う。限りないロマンを感じる。そうするとまた、もう一人の自分が「独居老人になったのかい?」というつぶやきが聞こえる。

 うどんは温(ぬる)かったが、美味しい。朝から何も食べていないので、お腹が満たされる。しばらくの間、小さな幸福感に浸る。

 時間を見ると大学入試の結果発表に近づいている。この最後に受けた大学は、父の希望によって受験したものだ。父は宇和島で小さな『健康堂薬店』という薬屋を自営している。この店名についていつも言ってる事は「俺のように資格試験で営業許可を取っている者は、○○薬店としか名前が付けられない。大学の薬学部を出た者は、○○薬局と名前がつけられる。俺も薬局と名前が付けたかった」ということだった。

 それで、僕が父の後を継ぎ、薬屋の名前も変えるために薬学部を受験したのだ。僕自身としては、薬学部は好みではなかったが、父の思いを大切にしたかった。だけど、四つの大学が不合格になり、残ったのはこの薬学部だけだから当然、合格すれば嬉しいし、進学しようと思う。おそらく、この大学がダメであれば、浪人するしかないだろう。でも浪人生活に、今の地獄のように苦しい心と体の状態を思うと、生きて耐える自信は無い。

 合格発表の時間が過ぎる。その大学の試験会場で、合格発表の時に電話をすれば合否を教えてくれるサービスに申し込んでいる。僕は震える手をさらに震わせて、教えられていた番号に電話をかける。自動応答になっていたので、受験番号を入力すると「サクラチル、コンカイハ、フゴウカクデシタ」と男とも女ともわからない電子的な声が聞こえて、すぐに切れた。

 僕は再びデッキに出る。椅子に座る。脳細胞が何かを考えるという働きを放棄しているように思える。時間の感覚もなくなる。

 どのくらい座り続けていたのか分からないけれど、顔に冷たいものが当たるので、現実の感覚にもどる。

 船は、佐田岬半島を過ぎている。晴れていても冬の豊後水道は荒れる。巨大なうねりが襲いかかっている。うねりの山を上る時には、船首が空中に飛び立つのではないかと思われるほど、突き上る。逆に谷に落ち込む時はまるで、海底まで潜るのではないかと心配になるほど沈んで行く。うねりの底に到達すると、船首を覆いつくすような激しい波飛沫(しぶき)が舞い上がる。その細かいしづくが僕の顔にまで飛んでくる。同時に、船を噛み砕いてしまいそうな轟音が響く。

 船は地獄に引きずりこまれそうになるのに、必死で抵抗しているように見える。そんな中、僕の頭の中に一つの言葉が浮かび上がってくる。『死に至る病』これだ。以前に図書館で題名にひかれて読んだものだ。内容は難しくて理解できない。だけど、翻訳された言葉が僕の心に響き続けている。

 確かに、死ぬことのできる人は幸せだと思う。なぜなら、死ぬことは希望だから、いつでも死ねる人は、いつでも希望を持って生きているのだ。僕は違う。死にたくても死ねない。まさに絶望だ。生きていること自体が絶望なんだ。生きている限り続く絶望だ。それを断ち切るのは自分の意志ではできない。間違いなく『死に至る病』に侵されていると思う。もしこの世に、本当に神が存在するのであれば、僕をこそ救ってほしいと思う。

 うねりはさらに激しさを増す。飛沫が飛んできて、顔だけではなく体全体が濡れてくる。寒さで震えて歯がガチガチと音を立てる。それでも我慢していると、少しずつ意識が薄れるような気がする。ふと、このまま死ねるかもしれないと思う。『死に至る病』を克服できるかもしれないとうれしくなる。そう思うと、寒さが苦痛ではなく楽になり、死ぬことが希望のように思える。

 朦朧とする意識の底から「無駄死よ」ともう一人の自分が静かに言うのが聞こえる。

 その時、誰かが僕の腕をつかみ立ち上がらせる。病院の看護師よりもはるかに力強い。気がつくと、頑強な船員が側に来ていて、僕を抱きかかえるようにしている。船員はゆっくりとデッキから船室に連れて行ってくれる。それから毛布まで持ってきてくれる。僕は毛布代を出そうと思い、財布を取り出すが、船員は「そんなものいらないよ」という仕草をして去った。

 頭からすっぽり毛布をかぶって横になる。そのまま、気を失うように眠ってしまったようだ。

 「間もなく、宇和島港に到着します。皆様、お忘れ物のないように下船の準備をお願いいたします」この放送で目が覚める。船窓から外を見るとすでに真っ暗になっている。ひどい悪寒を感じる。相変わらず体が小刻みに震える。

 しばらくするとエンジンの音が緩やかになる。桟橋に近づいたのだ。夏場であれば、多くの客は早めに下船の準備を済ませて、船室を出て桟橋の見える通路に並び、接岸を待つ。今日は寒いので、誰も船室から出ない。接岸してからゆっくりと下船するつもりだろう。

 僕は一人で通路に出る。風が強い。まだ湿っている服から体温が急に奪われるような感じがする。体が小刻みな震えから、立っているのが難しいほどガタガタと震える。桟橋は目の前にある。そこには十人ほどの作業員が様々な道具を持って、船が接岸するのを待っている。その人たちから少し離れて、薄暗い街灯に照らされているところにも何人か人がいる。おそらく出迎えの人だろう。

 その中に小さな体の母の姿を見つける。母も僕に気がついているようだ。母はひかえめに手を振っている。その時、母の姿と僕の中にあるもう一人の自分が重なり合うような気がした。僕は、母にしがみついて泣き叫びたい気持ちになる。

             (了)

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