第2話 俺が……推しのマネージャー!?

 ガチガチに固まる両手でハンドルを握りしめる俺に、背後から優しく語りかけてくる声。


「大丈夫だよ、井上くん。ゆっくり安全運転でいいからね」


 バックミラー越しに見えるその笑顔に心臓を撃ち抜かれ、俺は卒倒しそうになるのをなんとか堪えた。


 まさか、まさか。




 ――本当にこんなことが、実現するだなんて。




「井上さんもご存知の通り、今二人の人気は急上昇中! 音楽番組にバラエティ、なんでも引っ張りだこな訳です」

「しかし人気が出るとそれに比例して、単独でのお仕事も少しずつ増えてきます。遥くんはその毒舌キャラからバラエティに、霞くんは先日のゲスト出演をきっかけに俳優としてのお仕事が少しずつ増えています」

「そこで! 二人の活動を支えるもう一人のマネージャーが欲しいと我々は思っていたのです!」


 思い返されるのは、辿り着いた事務所でマネージャーに聞かされたそんな話だ。急な展開に流石の霞たちも驚いていたようだが、二人の中でも思うところはあったらしい。


「……確かに、次のマネージャー選びで難儀してたのは確かだ」

「募集をかけても遥くんたち目当てのファン女性ばかり! とてもですが信頼して二人を預けられそうな人は居ませんでした」

「でも井上さんは……なんというか、あんまり警戒しなくていいんだよね」

「へ……?」


 やけに高級そうなソファの上で間抜けな声を出した俺を見て、霞は穏やかに微笑む。


「僕たちに対して変な感情を向けられるような心配がないっていうか。その……き……すしてるところを見られちゃったけど、そのことを意識させないような空気感があるっていうか」

「霞はいつまでそういう初々しいリアクションするんだよ。キスしていいか?」

「駄目に決まってるだろ、ばか!」


 反対側のソファの上で太腿が触れ合うまで近付きいちゃついている二人は、テレビとは大きく異なる印象を与えてくる。しかしそれに俺は萎える訳ではなく、むしろ――いい、と感じてしまっていて。

 俺のそんな興奮は得意のポーカーフェイスで隠れていたおかげで、話を遮るようなこともなく。大学三年生、絶賛就活中だった俺はここへの正社員就職すら視野に入れる形で、気が付けば秘密保持契約の書類にサインを入れていたのだった。




「今日は授業があったんだよね?」

「は、はい……一限だけだったので大したことは」

「学業とマネージャーを両立なんて、大変だよね。お疲れ様」


 カーナビと窓の向こうをチラチラと見ながら慣れない道を運転する俺に、霞はねぎらいの言葉までかけてくれる。どう考えてもアイドル生活の方が多忙だろうに、何故このような言葉が出るのかと最早不気味さすら感じる俺だったが、霞の笑顔はそういう裏側を感じさせない。


「あ……ありがとう、ございます」

「敬語はいいよ。同い年なんだよね? 僕のことも気軽に呼んでくれていいから」

「……ありがとう、霞」

「うん。改めてよろしくね、井上くん」


 まだ本業が残っているということもあって、俺のマネージャー活動は主に、霞が単独で仕事に向かう際の送迎や補佐が中心となった。俺にとっては、最推しの霞と二人きりで居られるなどという願ってもいないような奇跡的状況。前世の俺は一体どれ程の徳を積んだのかと問いただしたくなるような現実を何とか飲み込み、俺は安全運転を徹底して車を走らせる。

 小さめの渋滞にハマりハンドルから手を離した俺は、ちらりとバッグミラーを見る。次にあるドラマ撮影の台詞を復習でもしているのだろう、冊子を開いて唇を小さく動かすその仕草がやけに魅力的で、俺はすぐに視線を逸らした。

 しかしそれにめざとく気がついたようで、こちらを向いた霞は「どうかした?」と俺に問いかけてくる。

 俺は気付かれてしまった事実に居心地の悪さを覚えながらも、おずおずと自分の想いを口にした。




「あの……霞って、いつも優しいけど……しんどいなら無理しなくていいからな。俺は、ファンじゃなくてマネージャーな訳だし」




「……え?」


 ガチ恋、という言葉が俺はあまり好きじゃない。誰かの誰かに対する愛を、そんな簡単な言葉で言いくるめられるとは感じていなかったからだ。けれど俺のこの、霞へ向ける感情は、きっとガチ恋の一種なのだろうことは分かりきっていた。

 それは、霞には一生打ち明けることのできない秘密。マネージャーという立場に立った以上、そして霞と遥の関係性を知ってしまった以上、胸の奥にしまいこんで、これからは応援の気持ちでそばに居ないといけない。

 それでも――俺の中で確かに巣食う霞への純粋な感情が、知らず知らずのうちに言葉を吐いていく。


「ずっと優しくし続けるのって、辛いだろ。そういうストレスは遥さんの前で発散してるのかもだけど……俺の前でも、無理はしなくていいんだぜ」

「……」


 珍しいとすら思える呆然とした顔だった。渋滞が解消され始め、車はゆっくりと動き出す。バックミラーから正面へと視線を戻した俺に、背後から静かな声がかけられる。


「……ありがとう。そんな風に言ってくれたの、君が始めてだ」

「え……遥さんとかは?」

「あいつはいい意味でも悪い意味でもマイペースだから。僕の都合なんか気にしていないよ」

「そ、そうなのか」


 遥と霞は一体、どんなお付き合いをしているのだろうか。好奇心がむくむくと湧いてくるが、それをマネージャーが問うのはおかしいということくらい分かりきっていた。喉まで出かかった疑問を何とか飲み込み、俺はカーナビの案内に従って交差点を曲がる。目的の撮影場所はすぐそこのようだ。


「そろそろかな……現地に着いたら、とりあえず一緒に出演者さんたちに挨拶回りをするよ。そのあとは楽屋に入ってメイクと着替え。撮影中は、見守っていてくれれば大丈夫だから」

「わ、分かった」

「君にとっては初仕事だもんね。肩の力抜いてね」

「ありがとう、霞」


 霞の指示で駐車場に車を停めた俺は、周りの安全を確認してから後部座席のロックを解除した。霞たち二人のスケジュールが記された職員用の端末をポケットに仕舞い、俺は彼と共に車を降りる。

 あっちだよ、とこちらを振り返って誘導してくれる霞に頷きを返しつつ、俺は共に現場へと向かった。


 撮影現場での時間は――緊張しすぎて、正直あまり覚えていない。挨拶回りで向かった先に居た大勢の大物俳優――そして物怖じせずに言葉を交わす霞の度胸。渡された高校制服の衣装に照れくさそうにしながらも、あっさりと着こなしてしまう容姿端麗さ。そして撮影本番、いつも通りの柔和な笑顔が見せる自然体の演技で、メインヒロインすら飲み込みかねないその魅力。

 きっと現場に居た全員が、アイドルとしての霞の素養に虜になった事だろう。ほんの脇役出演だったため撮影は一瞬で終わったが、その爪痕は関係者の心へ深く突き刺さったはずだ。


「お疲れ様、霞……すごかったな」

「ありがとう。すごい? 何が?」

「霞の演技だよ」


 タオルをそっと差し出しながら楽屋でそう伝えると、霞はきょとんと不思議そうな顔をした。

 

「すごくなんかないよ。ほんの少しの台詞だったのに、緊張しちゃったし。多分棒読みになっちゃっただろうし」

「んなことないって。いつも通りの優しい霞だったよ」


 ぶんぶんと首を振り、そう訴える俺の言葉には無意識に熱が篭っていたかもしれない。タオルを片手にこちらを見る霞の顔がどことなく気恥ずかしげに見えたのは、それが原因なのだろう。


「……えっと……ありがとう、ほんとに」


 ぽりぽり、とぎこちなく頬を掻いてそう告げる霞。それはテレビ越しの霞が絶対に見せない、無防備な姿に思えて――俺は急激に速まる鼓動を押さえつけながら、「おう」とこちらまでぎこちなくなって頷いた。


「……そろそろ帰ろうか」

「……おう」

「タオルとお水、ありがとう。助かったよ」

「おう」


 短い二文字で応答しながら、俺たちは車へと戻っていく。その最中に端末でスケジュールを確認してみると、今日は珍しくこの一件のみのようだった。


「この後はフリーなんだな。霞、どうする?」

「今日はこのまま帰ろうかな。送ってくれるかい?」

「え……」


 ――むしろ、いいのか? という言葉が口から出かかった。推しの自宅に送迎だなんて夢のまた夢だ。しかし、俺は今マネージャー。当然といえば当然の業務であろうことは明白。


「わ、分かった」


 何とか首を縦に振った俺の様子を悟ったのか、霞はくすくすと笑い出す。


「もう、緊張し過ぎだよ。道は僕が口頭で伝えるから、安心してね」

「……了解」

「はいはい、肩の力を抜く」

「お、おう」


 霞の案内に従って車を走らせた時間は、そう長くなかった。もしかしたら緊張のあまり早く感じただけかもしれないが――真相は地図アプリのみぞ知るといったところか。

 しかし想像通りといってはなんだが、辿り着いたタワーマンションを窓越しに見上げて、俺は圧倒された。非日常に足を踏み入れてしまった事実をここまで明確に伝えてくる光景も、中々ないだろう。


「もう……そんなにびっくりした顔しなくてもいいんだよ? 確かに僕も、ここに引っ越した時は落ち着かなかったけど……」

「そ……そうなんだな。いや、霞に相応しい場所だと思う」

「遥もこのマンションの別の階に住んでいてね。会いやすいから便利なんだ」

「そう、なのか」

 穏やかな声でそう話す霞が車を降りる。事務所へのルートを確認するため、俺がカーナビに視線を向けたその時、コンコン、と助手席の窓がノックされた。


「井上くん」

「なんだ?」

「この後の予定は?」


 突拍子も無い問に瞳を瞬かせる俺。開かれた窓越しに小首を傾げる霞が返答を待っていることに我に返り、慌てて脳内スケジュール帳を捲る。


「いくつかレポートは残ってるけど、急ぎの用事はないよ」

「そっか。……あのね、もし君が良ければなんだけど」


 霞の視線が僅かに明後日を向く。ほんの少しだけ、何かに悩むような顔をしたかと思えば、意を決してこちらへ向いた眼差し。

 その翡翠の瞳のあまりの美しさに言葉を失いつつあった俺へ投げかけられたのは、更なる衝撃の言葉だった。




「僕の部屋に、来ない?」

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