推しと、キス。

黒詩ろくろ

第1話 推しが、推しとキスをしていた

 俺の推しが――推しと、キスをしていた。


「ん……止めろって、こんなところで……」

「良いだろ、少しだけ……」


 嘘みたいだと思うだろう。俺すら思う。

 そもそも道端で推しと遭遇できるだけでも奇跡だというのに、さらにキスシーンを目の当たりにすると誰が思うだろうか。

 数秒間呆然とその光景を眺めてから、俺ははっと我に返った。よくよく考えれば、俺がこの光景を目にしていることが彼等に知られるのはかなりマズイ。俺の記憶が正しければ、そもそも彼等は表向きに付き合ってすらいないはずだった。それなのにこうして、隠れて口付けをしているというのは――つまり、そういうことなのだろう。

 今ならまだ、間に合う。ひっそりとこの場から立ち去り、目にしたものを幻覚だと信じて忘れればいい。

 そう決意し静かに後退った俺だったが――そう簡単にはいかなかった。


「! ……誰だ!」


 俺の踵が、アスファルトの隙間からたくましくも飛び出した雑草をくしゃりと踏んでしまった。その物音にめざとく気付いた片方が、俺の方へと振り返る。

 心の中は二つの感情で揺れていた。一つは、バレてしまったという焦り。そしてもう一つは――推しと会話をするチャンスを得られたという、隠しようのない高揚感だった。




「す、す……すみません、何も見てません」




 緊張に震える声が絞り出した言葉は、あまりにも情けなかった。

 当然、つい先程まで濃厚に重なっていた二人の唇は離されている。テレビの向こうで、そしてはるか遠くのライブ会場でしか見てこなかった二人が、俺の方へと視線を向けている。穴があったら入りたいという言葉が脳内を埋め尽くしはじめたその頃、二人組の中でも俺が最も推している片方が、緩やかに肩を落として微笑んだ。


「もう……この状況でそれは無理があるってことくらい、分かるよね?」

「うっ……」

「大丈夫。怒っている訳じゃないし、そもそも悪いのはあなたじゃなくて僕たちです。……はるか

「分かってるっつの……今呼ぶから」


 遥と呼ばれた短髪の青年は、携帯端末を取り出して誰かへ発信し始めた。これから何が始まってしまうのかとガチガチに緊張を増していく俺を見かねたのか、歩み寄ってきたのはもう片方――俺の最推し、結城ゆうきかすみ


「えっと……その様子だと、僕たちのことを知ってくれているのかな?」

「そ、その、えっと、大ファンです」

「そっか。ありがとう、すごく嬉しいよ。本当はサインでも書いてあげたいところなんだけど……そうだ、君の名前は?」

「お、俺は――」


 ――いい、のだろうか。それは二人だけの神聖な世界に、俺が土足で踏み入ってしまうような禁忌に思えて。

 歪な格好で固まった俺を不思議そうに見つめた霞は、そのうちふっと頬を緩めると――静かに、俺の手を握った。




「落ち着いて。大丈夫だから」




「……俺は……井上、です」


 ようやっとの思いで絞り出せたのは苗字のみ。霞もそれ以上追求する気はなかったのか、握った手を優しく揺らして「よろしくね」と笑顔を向けてくれる。握手会でもなんでもない場面で握手をしてしまった事実に今更俺が打ちのめされていると、通話を終えたらしい遥がこちらへ近付いてきた。


「よし……とりあえずマネージャーが迎えに来る」

「分かった。井上さん、急で申し訳ないんだけど……僕たちの事務所へ来てくれるかな」

「ぇ、あ……むしろ、いいんですか」

「事情が事情だからね。もちろん、みんなには内緒にしてね?」


 しー、と人差し指を唇に押し当ててみせる霞の仕草に、俺はこくこくと首を激しく縦に振る。気だるげにガリガリと頭を掻いた遥は、俺のことを見定めるように視線を送ってきた。


「……分かってると思うけど、今日目にしたことをどこかで言ったりしたらただじゃおかないからな」

「遥。脅すようなことを言わない。悪いのは僕たちじゃないか」

「んなこと言ったって霞、生優しいことを言ってもし此奴が暴露しちまったら、俺たちのアイドル人生はどうなるんだよ」

「あ、あの……」


 おずおずと片手を上げ、絞り出された俺の声に振り返る二人。


「お二人は……付き合ってる、のか……?」


 ――堪らず、聞いてしまった。もしかするとそれは、見なかったことにして触れない方がいい話題だったのかもしれない。それでも推し達の衝撃的な光景は俺の頭から離れず、有耶無耶にすることなどできなかった。

 案の定、二人はその問いに顔を見合わせてしまう。困らせてしまっている、と慌てて質問を撤回しかけた俺だったが、そのうち何かを決心したのか、二人は揃って俺の方を向いた。




「あぁ、そうだ」

「デビュー当初からね」




「そ……」


 ――そう、だったのか。

 覚悟は、していた。あそこまでの濃密な口付け――付き合っていないほうがおかしいと。

 それでも、いざ本人達の口からそれを聞いてしまうと、消化するには時間がかかりそうだった。

 そして何より――言葉にならない不気味な感情が、俺の胸の内側でぞわりとうごめいた。


 これは、なんだ?




 ――――




「ほんっとうにあなた達は! バカなんですか!」




「うわっ、来やがった……」

「うわっはやめてあげてよ、遥」


 路地裏に飛び込んでくる明るい声。俺がびくりと肩を竦ませると、二人の視線の先には一人の女性が立っていた。


「あ! あなたが噂の目撃者さんですね?」

「井上さんだよ」

「この度はうちの所属アイドルが見苦しいものをお見せしました。本当に申し訳ございません、井上さん」


 パンツスーツでびしっと決めたその女性は、俺の方へピンヒールを鳴らして歩み寄ると頭を下げてきた。俺はその謝罪に動揺し、手をあわあわと動かしてしまう。


「や、えっと、そんな……むしろ美しかったというか……」

「……美しかったって、そんな」

「そこで照れるな、霞」


 じんわりと耳を赤くした霞の脇腹を肘で突く遥。ちょっとしたそのやりとりに鼻血が出てしまいそうな高揚を覚えながらも、俺はなんとかマネージャーさんらしき女性の方を見つめた。


「それならまだマシでしたか……いやはや、井上さんが同性愛に理解のある方で安心しました。立ち話もなんですし、とりあえず助手席へどうぞ」

「あ、は、はい」

「遥も行くよ」

「へーい」


 テレビでしか見たことのないような、後部座席がマジックミラー仕様になっている黒塗りの高級車。おずおずと乗り込んだ助手席はどことなく爽やかな香りが漂っていて、二人が乗ってくるとそれがますます増していくような気がした。

 これまでとは別の緊張感に身を縮こまらせる俺。しかしマネージャーの女性はなんら気にすることなく、シートベルトを締め発進する。


「さてさて、詳しいお話は事務所でさせていただく訳ですが……移動時間も暇でしょうし、手っ取り早く井上さんには、お伺いしたいことがあります」

「……なんですか?」


 信号待ちの隙にこちらへ振り返った女性は、にっこりと満面の笑みを浮かべて俺に問いかけたのだった。




わたくしどもの事務所で、マネージャーをしてはいただけませんか?」

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