第3話 推しのご自宅訪問

「好きに寛いでいいからね。あ、トイレはそこを右だよ」

「あ……お……」

「もう……落ち着いてよ、ただのタワーマンションの一室なんだから」


 ――どうすればこの状況で落ち着けるというんだ。

 俺は今、一体どういうことなのか――最推しの家に招かれている。

 玄関をくぐった瞬間からふわりと広がるいい匂いは、いかなる芳香剤とも表現出来ない。霞自身から発せられている匂いなのだとしたら、俺は最早霞に全身を包まれているも同然かもしれない。

 そんなことを思い始めてしまったら、もう駄目だった。全身がどくどくと脈打つ錯覚すら覚える程に心拍が上昇していく。手に持ったミネラルウォーターが俺の震えを拾い、波紋を作っていく。自分のミネラルウォーターを数口飲んだ霞は、俺のそんな様子に苦笑を浮かべていた。


「大丈夫、大丈夫だよ。何も取って食ったりしないから」

「そ、それは勿論分かってるんだけど」

「それなら、何にそんなに緊張しているんだい?」

「か……霞に」

「僕に?」


 俺はミネラルウォーターを置き、そっと自分の体を抱きしめるように腕を回した。


「……包まれてる……感じがして……」




「ぷ……っあはは!」




 ――数秒後、広々とした一室に笑い声がこだました。


「なんだよそれ、この一室が僕なの?」

「だ、だって! いい匂いするし……!」

「いい匂い……? そんなの感じないけどな」


 不思議そうにすんすんと鼻を鳴らす霞を見る俺の目は、怪物でも見るようなものになっていたかもしれない。こんなにもいい匂いなのに、それを感じないだなんて――アイドルというものは底が知れない。


「それなら、実際に包まれてみる? 違いがわかるかもしれないよ」

「実際に、か……って、へ?」


 今、なんて? と思考がフリーズしかけていた俺の隣へ容赦なく座ってくる霞。待て、待ってくれ、そろそろ俺の心臓は限界だ、とぶんぶん首を横に振るが、霞は面白がっているのか止まる気配が無い。


「僕らしくないとも思うんだけどね。……なんだか君、可愛くて」

「へ……」

「いつものマネージャーさんは女の子だし、そんな風に思うことは無かったんだけど……君とは、もっと仲良くなりたいんだ」

「え……あ……」


 駄目かな? と顔を覗き込むように問いかけるその仕草は、小動物のようで。色素の薄い髪がふわりと揺れる光景に、徐々にほだされていき――俺は。


 ――こくん、と、首を縦に振っていた。


「それじゃあ、失礼して」


 楽しげに弧を描く霞の唇が迫ってくる。堪らずキュッと目を瞑り、来たる衝撃に身構えた、その時――




 ――どこかすぐ近くで、バイブレーションが鳴り響いた。




「あれ、僕だ」


 迫っていた気配が遠ざかる。ぽふっと隣に座り直した霞が、携帯端末を取り出していた。


「なに? 遥」


 耳に当てて早々のその言葉に、通話相手を悟る俺。よくよく考えたら、霞と遥は付き合っているんじゃなかったか……? と今更ながらこの状況に後ろめたさを覚える俺だったが、霞は一ミリも気にする様子なくミネラルウォーターを揺らしている。


「うん。……え、そうなの? ……うん……分かった。無理はしないでね」

「うん、うん。……僕もだよ。それじゃあ、またね」


 通話はあっさりと終了した。端末をポケットに閉まってから、ミネラルウォーターをぐいと飲み干すその喉仏を俺はつい見つめてしまう。しばしの沈黙の後振り返った霞は、「ん?」と首を傾げた。


「あ、いや……電話、なんだったんだ?」

「あぁ……遥だったんだけどね、共演者さんが渋滞に巻き込まれたとかで、収録が押してるんだって」

「そうなのか」


 俺は端末を取り出し、遥のスケジュールを確認した。今日のバラエティ番組の収録は二十一時には終わる予定だったはずだ。


「日付を跨ぐかもって。だから今夜の予定はキャンセルなって連絡だったよ」

「そっか……ん? 今夜の予定?」


 咄嗟にもう一度端末を見るが、今夜それ以外の予定は組まれていない。霞の方に視線を送れば、うん、と当然のように頷かれる。


「明日がオフだからね。今夜は遥の家に泊まる予定だったんだ」

「そ……」


 ――それ、って。

 開いた口が塞がらない俺。「そ?」と不思議そうに首を傾げる霞。

 付き合っている男女――じゃない、恋人同士が家に泊まる。それはつまり、そういうことをする予定だった、ということで――。


「…………井上くん」

「は、はい」


 反射的に上擦ってしまった声。霞の顔を見られず俯く俺に、霞はくすりと笑って、言った。


「君って、初心うぶなんだね」

「……!」


 顔真っ赤、と笑いながら揶揄われ、俺はぺたぺたと己の顔を触った。確かに酷い熱を持った自分の顔を自覚し、へなへなとテーブルにつっ伏す。

 童貞だなんだと言われなかっただけ優しさかもしれない。霞が楽しいのならばいいが、俺は恥ずかしさのあまり帰りたくなる気持ちと、少しでも長くこの夢のような時間を過ごしていたい気持ちとのせめぎあいでいっぱいいっぱいになっていた。


「まぁ、君の想像の通りだから気にしなくていいよ。遥は結構がっつくタイプでね……オフの日の前日にしないと、腰が砕けて大変なんだ」

「こ、こ、腰」

「彼も僕も性欲はそれなりにあるから、そこまで気にしていないんだけど」

「せっ……」


 ――いくら同性のマネージャーといえど、ここまで赤裸々なものか、普通!?

 霞の予想外の暴露っぷりに目を白黒させる俺。それを見兼ねてなのか、霞はうーんと何かを考える素振りを見せると、不意にソファから立ち上がった。


「井上くんって、お酒は?」

「ふ、普通に飲めるけど……」

「そっか。それならさ」


 冷蔵庫に向かった霞は、いくつかの瓶を取り出してこちらへ戻ってくる。それらをテーブルに並べ、作られたのは百点満点の笑顔だった。


「僕と一緒に、お酒飲もうよ」

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