第9話 毒使いは懸念と空腹を天秤に掛ける
依頼書に書かれた住所に着くと、そこは街から少し離れた所にある立派な豪邸だった。これならあんな報酬も払えるだろう。
門の外から敷地を覗いていると、庭で掃き掃除をしているメイドと目があった。こっちへ近づいてくる。
「もしかして、依頼を見て来られた方ですか?」
「あ……はい!」
よかった、不審者だとは思われなかったみたいだ。
「どうぞ、中へご案内いたします」
メイドの後に続いて広い庭園を進んでいく。よく手入れされた庭園には色とりどりの花が咲き、この家の主人が趣味で集めたと思われる石像がいくつか飾られている。しかし、奥へ進むほどに手入れが行き届かなくなり、ついには雑草が生い茂るようになった。
メイドが足を止める。
「こちらがお2人に作業していただきたい石像でございます」
目線の高さほどの台座の上には、一匹の凛々しい獣の姿があった。
三角の尖った耳、すっと通った鼻筋、荒々しい毛並み。昔、孤児院の本で見たことがある。
「モチーフはフェンリルですか?」
「よくご存じですね。こちらは伝説の神獣であるフェンリルをモチーフにしていると言われています」
本に描かれた絵で見た時よりも、立体になると迫力がある。
「それで、依頼内容はこの石像の撤去ということで間違いないですね?」
「はい。屋敷の敷地外に出していただけるのであれば、石像の状態は問いません」
その含みのある言い方が気になった。
「それは石像を破壊してもいい、ということですか」
「その通りです」
庭園に石像をコレクションしている主人が、この石像は破壊してでも屋敷の外に出したいと言っている。そのための高額すぎる報酬といい、この石像自体に何かがあるという事だ。
メイドは作業に使えそうな道具を持ってくると言って、その場を離れた。
「シャルはこの依頼どう思う?」
俺の言葉にシャルは首をひねる。
「そうですね、この石像を単純には撤去出来ない理由があるということはわかりました。それがどんな理由なのか見当もつきませんが、できる限り依頼に応えたいと思っています。……ただ、この石像を壊してしまうのは反対です」
「それは同感だ」
今にも石の瞳に光を灯し、走り去っていきそうな気持ちさえする。それほど、獣の荒々しさと凛々しさを見事に映し出したこの像をただの石片にしたくはなかった。
この石像にどんな秘密が隠されているのか分からないが、俺達の手に負えないと判断したらすぐに引き上げた方がいい。ここまでの高額報酬は他にないが、自分たちの身の危険には代えられない。引き際を見極めることが重要だ。
「お待たせいたしました」
しばらくしてメイドが両手に荷物を抱えて戻ってきた。
「こちらがハンマーなど一通りの道具でございます。他に必要なものがありましたらお申し付けください。そしてこちらですが……」
そう言って、大きなバスケットの蓋を開ける。
「昼食をご用意しました。他にお食事やお飲み物など、必要なものがあれば何なりとお申し付けください」
目にも鮮やかな野菜と、香ばしく焼けた肉の匂い。そう言えば、ここ数日は乾いたパンばかり齧っていた。ふっとシャルの方に顔を向けると、目を輝かせてバスケットの中身に釘付けになっている。
うん、ひとまず食べてから考えよう。
「さて、まずはどうしよっかな……」
満腹になったところで、俺は立ち上がった。
石像にぽんと触れると、ひんやりとした感触がある。その時だった。
目の前に黒い霧が立ち込め、たちまち視界は真っ暗になる。何か強烈なプレッシャーを本能的に感じて、視線の一つも動かせない。
『立ち去れ』
生暖かい吐息と腹の底に響く声。何も見えないはずなのに、あのフェンリルが目の前にいるのが分かる。
『人間は悪だ』
肌を刺すような敵意だ。俺の命を奪うことになんの躊躇いもないのだろう。
ようやく分かった。この依頼の本質。俺には勝てない。腰に下げた水筒を毒に変えて飲めば、シャルを抱えて全力ダッシュでこの場を逃げ切れるかもしれない。身動き一つ取りたくない本能に逆らって、水筒に手を伸ばす――
「どうして人間がお嫌いなんですか?」
まるで世間話をするようなシャルの声に、緊張が途切れた。その瞬間、石像に触れたまま動かせなかった手が離れる。
目の前の黒い霧が晴れ、なんの変哲もない石像と雑草の生い茂る景色に戻った。
「はぁ、死ぬかと思った……」
緊張から解放されて、地面にドサっと座り込む。俺は後ろを振り向いた。
「よくあの状況で声が出せたな」
「だって会話ができるってことじゃないですか。それなら力で対抗しなくても解決できるかもしれないって思ったんです」
あんな場面で対話を選択できるなんて並の度胸ではない。しかしフェンリルが襲ってこなかったことを考えると、この選択は正しかったのかもしれない。
「ひとまず、詳しい話を依頼主から聞かせてもらおうじゃないか」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます