6・まねかれざる客(はじまり)
桜が舞い散る季節。兄が仕事に復帰した。
寝たきりだったため、しばらくの間は怪我をした部分を動かしにくいと言っていたけれど、兄は病室に現れる幽霊から逃れたい。その一心でリハビリを頑張ったようだ。
退院が決まった時は喜び、そして逃げるように病院を抜け出した兄の姿に咽るほど笑った。
ひらひらと舞い落ちる桜の花びらが、中庭を埋め尽くしている。
窓枠に手をかけて中庭を眺めていると、家庭科室の扉がガラッと音を立てて開く。
隣のクラスは家庭科の授業を行っていたようで、生徒達が綺麗にラッピングされたクッキーを手に持ち、次から次へと姿をあらわした。
「うまそう! 持ち帰って食おうぜ!」
髪を金色に染めた男子生徒がラッピングされたクッキーを掲げて仲間に声をかける。
「おう!」
ピンク色の髪が印象的な男子生徒が、満面の笑みを浮かべると、二人を囲むようにして佇んでいた男子生徒達が一斉に教室に向かって駆け出した。
持ち帰って食おうとは、教室に持ち帰って食おうって言う意味らしい。
簡単に授業をサボりそうな見た目をしている男子生徒の性格は真面目だったようで、人は見かけによらないなと考える俺の背後で笑い声が上がる。
走り去っていく男子生徒を笑い声を上げて見送っていた女子生徒が、グループごとに分かれて教室に戻っていく。
「誰にあげようかな」
「私は隣のクラスの一条君にあげるよ」
「じゃぁ、私は理人にあげようかな」
頬をピンク色に染めながらクッキーを渡す相手を決めた女子生徒が足早に、この場を去って行く。
俺と同じクラスの一条は、王子様と生徒達から呼ばれていた。
クリーム色の髪の毛にさわやかな笑顔が印象的な一条に、クッキーを渡す生徒は一人や二人ではないだろう。
理人は一条の友人。
妖艶な微笑みを浮かべる綺麗な顔立ちをした生徒ではあるけれど性別は男。
俺にとっては話しかけづらい雰囲気を醸し出す生徒の一人である。
「私は九条先生にあげる」
黒縁の眼鏡が印象的な女子生徒がクッキーを両手で握りしめて呟いた。
「私も九条先生にあげるよ!」
黒縁眼鏡の女子生徒の言葉に同意するようにして、女子生徒達がキャッキャッとはしゃぎだす。
中にはメッセージを付けてクッキーを渡そうとしている生徒もおり、九条先生へとピンク色の文字が記されているカードが添えてあるものもある。
ハートマークで最後は締めくくられており、茫然とクッキーに視線を向けていると
「九条先生喜んでくれるといいな」
クッキーを眺めながら言葉を漏らした女子生徒の頬が、ほんのりと赤く染まる。
兄はクッキーが好物だから、きっと喜ぶだろう。
へらへらと笑みを浮かべながらクッキーの入った袋を手に取る兄の姿が頭に浮かぶ。
ゆったりとした足取りで歩きだした女子生徒達が向かう先には……俺がいるんだけど。
女子生徒達は兄の話題に夢中で俺がいる事には気づいてはいない。
もしも気づかれたら、兄に渡す予定のクッキーを放り投げて俺の前から逃げ出すかもしれない。
女子生徒達が俺の存在に気づかずに、このまま通り過ぎてくれればいいけど……。
そっと女子生徒達から視線を逸らして中庭の景色に視線を向けていると、彼女達は俺が佇んでいる事に気づかずに背後を通り過ぎて行った。
よしっ、と思ったのもつかの間。
はしゃぎ声を上げた女子生徒に視線を向けると、嬉しそうにピョンピョンと飛び跳ねている。
喜ぶ女子生徒達の視線の先を目で追うと……。
走っているうちに黒縁の眼鏡が邪魔だと思ったのか、眼鏡を取り外して握りしめている兄貴が全速力で向かってくる。
普段はゆったりとした足取りで歩いている兄貴が走っている姿を初めて見た。
もしかしたら俺よりも早く走るのかもしれないと、呑気に考えていると肩に衝撃が走り、気づいた時には視界が随分と傾いている状況だった。
「ごめん!」
兄貴の声が一瞬にして通り過ぎていった。
地面に尻もちをついたまま、通過していった兄貴を眺めていると
「だ……大丈夫?」
か細い声ではあるけれど、怯えながらも俺に声をかけてくれる人物がいた。
視線を声の主に向けると、クッキーの入った袋を両手で握りしめながら佇んでいる女子生徒が二人、床に腰を下ろしたままの俺を眺めている。
妙子以外の女子生徒から話しかけられる何て経験は今までになかったため、茫然と女子生徒達を見つめたまま固まっていると
「九条先生、どうしたのかな? 猛スピードで駆け抜けて行ったね」
害の無い人間と思ってくれたのだろうか?
女子生徒が声をかけてきてくれる。
「九条先生が走っている姿を初めて見た。いつもゆったりとした足取りで歩いているからさぁ」
問いかけに対して返事を返せずにいると、隣に佇んでいる女子生徒が返事をしてくれる。
「大丈夫? 突き飛ばされた時に腰を打ったの?」
床に尻もちをついたまま座り込んでいる俺が、立とうとしないから腰を打ち付けたのかなと思ったようで、手を差し出してくれた女子生徒に問いかけられる。
「まさか、華奢な兄貴に突き飛ばされる日が来るとは思っていなかったから……」
「ショックを受けたのね」
クスクスと笑みを浮かべる女子生徒が、なかなか俺が手を伸ばさないからしびれを切らしたようで、目の前で屈むと強制的に腕を掴み、グイッと引き上げられる。
「重いわね」
俺の体重の事を言っているのだろう。
ポツリと本音を漏らした女子生徒に対して
「まぁ、俺も年相応の平均的な体重はあるわけで、まさか軽々引き上げられるとは……」
軽々持ち上げられるとは思っていなかった事を伝える。
「あ、そうだったわね。男だったわね」
「ん?」
クスクスと笑みを浮かべる女子生徒の言葉に瞬きを繰り返しながら首を傾けることになった。
兄貴と違って華奢な体つきをしているわけではない。
女性のような顔立ちをしているわけではなく目つきは、きっと悪い方だと思う。
男だったわねの発言に疑問を覚えながらも、驚いている間に走り去った兄貴を目で追おうと視線を東校舎へ続く廊下に向けると、既にそこには兄貴の姿は無く
「九条先生に渡しそびれちゃったな……」
俺の体を軽々と引き上げた女子生徒がクッキーを、しっかりと握りしめたままの状態で呟いた。
なんとも哀愁漂う姿である。
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