【芹】貧しくても高潔
次に目覚めたとき、隣に榧様はいなかった。
乱れた着物も帯も見当たらず、私は裸で褥に包まれていた。
「あ……お支度を……っ」
慌てて起き上がろうとした瞬間、体の奥がずきりと痛んだ。咄嗟に体を支えようとした腕も力が入らず、褥に倒れ込んでしまう。
一度抱かれただけでこれほど消耗したことはなく、動くことが出来ない私は必死に今朝の出来事を思い出そうとした。けれど記憶に残っているのは、榧様が中で果て、ほぼ同時に私も果てたということだけ。そこから先は全く覚えていなかった。
「榧様……」
心細さのあまり、情けない声が漏れる。と、部屋の襖が開いて盆を手にした榧様が入ってきた。今朝私を抱いたばかりだとは思えない、しっかりとした足取りで、私の傍まで近付いてくる。
「ああ、お早う。良かった、だいぶ無理をさせたから目覚めないかと心配したよ」
「榧様……すみません、起きようと思ったのですが……」
「構わないよ」
体を起こすことすらも出来ない私に、榧様は優しく笑いかけた。そして枕元に膝をつき、持ってきた盆を傍らに置くと、大きな手のひらで私の頭を撫でた。
「ここで暮らすようになってからというもの君は働きづめだったからね。少々無茶なやり方ではあるけれど、一日休んでもらうよ」
「えっ……」
まさかそのために、昨晩に引き続き今朝も私を抱いたと仰るのだろうか。
驚き目を瞠る私を見下ろし、榧様は艶麗な笑みを見せる。
「ふふっ。念には念を入れて、君が気をやったあとも何度か抱いたのだけれど、少々やりすぎてしまったかな」
苦笑する榧様はいつもと何ら変わりない。あのあとも私を抱いていたというのに、情けない有様の私と違い、少しも疲れた様子が見られない。
「か、榧様は……何ともないのですか……?」
「うん、私は何とも。寧ろ清々しいくらいだよ。意識がなくとも度々可愛く果てては絡みつく君の体は、とても愛らしかったな」
意識を失っていたときのことまで話されて、私は一気に顔が熱くなるのを感じた。上掛けを顔まで引き寄せ、榧様のしあわせそうな目から逃れようとすると、その手をやんわり掴んで止められた。
「お蘭、君の全ては私のものだと言ったろう」
「っ、はぃ……」
引き上げかけた上掛けをそっと戻し、横たわったまま榧様を見上げる。満足そうなお顔で暫く見つめていたかと思うと、私の背を支えて体を起こした。
「少し水をお飲み。随分と可愛く鳴いていたから、喉が枯れてしまっただろう」
体を支えられながら差し出された湯飲みで水を飲む。自分で飲もうと腕をあげたはいいが、手が震えてしまって湯飲み一つすら持てそうになかったのだ。
「この様子では、明日も休んでもらったほうがいいかな」
「そんな……そこまで休ませて頂くわけには……」
「大丈夫。仕入れも済んでいるし、実は静たちのお陰で殆どやることがないからね」
再び体を横たえられ、寝かしつけるように撫でられる。
体の奥の鈍い痛みは、ともすれば抱かれた直後の甘やかな余韻にも似ていて。私は榧様の手の心地よさに目を閉じた。
この街に着いてから、私たちは茶屋の女将さんから受け継いだ屋敷を正式に住処として暮らしていた。私は名を蘭と改め、榧様の妻として生活している。
私はともかく榧様はお家が放っておかないのではと思っていたのだけれど、榧様は鷹揚に笑みながら「優秀な弟がいると言ったろう」とだけ仰っていた。
私がその言葉を理解するよりも先に、行商たちの噂で大和屋が代替わりをしたとの話を聞いた。
私の店は元々潰えかけていたから商人たちの口には上らなかったけれど、ある日、私の元を一人の青年を連れた静が現れた。
その青年は
なにより驚いたのは、ずっと祖母が雇った下女だと思っていた静は父が雇った下男だったということ。しかも父は母が私たちを身籠るや静を家から安値で買い、何度も夜の相手をさせていたらしい。下男どころか男娼扱いだ。それを知りながらも自分に優しくしてくれた母の恩に報いるため、言葉通りに私を探し続けたという。
静の忠誠の理由を思わぬ形で知った私は、榧様に相談して二人を正式に雇うことにした。といっても、元の大和屋さんのような規模の店ではないのだけれど。
静も鎮も、とてもよく働いてくれている。身一つで逃げてきて、後ろ盾もないまま商売を始めなければならないうちは、満足な給金を与えてやれないというのに。
それでも、静は私に仕えることが幸福だと言い、鎮は静といられるだけで幸福だと言う。
ある日、私は二人にこう言った。
「お前たちは本当に欲がないね。遠慮をさせてしまっているのは私だけれど、本当になにも望みはないのか?」
静と鎮は顔を見合わせて、頷いた。そして無口な鎮に代わって、静が答えた。
「旦那様ほどではございません」
意味を汲みかねている私を見て、静は続ける。
「家も名も全て捨てて、榧様だけを選ばれたでしょう」
「……そうだね。はは、その通りだ」
静は家がどうなったかを決して語らない。ただ、連れ戻される心配は無いとだけ、私に告げた。それ以外のことはなにも言わないし、静はきっと家であったことは全て墓まで持っていくつもりなのだろう。
「……んっ……」
ふと顎を擽る指の感触がして、目を開けた。微睡みに身を任せていたら、あのあとまた眠りに落ちてしまっていたらしい。
「榧様……?」
眠る前と殆ど変わらない体勢で私の傍にいた榧様を見上げ、未だ擽るのをやめない温かな手に自らの手を重ねる。
「起こしてしまったね。しあわせそうな顔をして眠っていたものだから、つい愛しさ余って触れたくなってしまったんだ。済まない」
「いえ……」
するりと頬へ滑る手にすり寄り、うっとりと目を閉じる。今度は寝てしまわぬよう榧様の手の感触を堪能したら、瞼を押し上げて榧様のお顔を見上げた。
「なにかほしいものがあれば言うんだよ。今日一日、君に尽くすと決めたのだから」
とろりと目を細めて艶のある低い声で囁く榧様に、私は頷いて撫でる手に己の手を重ねた。
町一番の大店の若旦那から一転、新参者になった榧様と私たちは、まず街の一員になることから始めた。ここでも榧様の見目と愛想の良さが発揮され、思っていたより早く街に馴染むことが出来た。
榧様が農家から野菜やお米を分けてもらうこともあれば、私が呉服屋から端切れを頂くこともあった。荷車もなく、身一つで越してきた私たちを訳ありだと察していた人もいたろうに、この街の人は皆、とても親切だった。
女将さんはきっと、家だけでなく、この街も好きだったのだろう。優しく穏やかな気性の街は、賑やかで活発な私たちのいた街とはだいぶ雰囲気が違う。
あの街も決して嫌いではなかったが、私にはここのほうが合っているように思う。
「ここはとても穏やかだね。君と静かに暮らすのには丁度いい」
私がぼんやり思いに耽っていたことと同じようなことが榧様の口から零れてきて、私は笑みを浮かべて頷いた。
「榧様……私、しあわせです」
「ああ。私もだよ、蘭」
榧様のお顔が近付いてきて、唇にやわらかく触れるだけの口づけを落とした。
正午を回っても褥にいたのは、人生でも初めてのことだった。
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