【杏】臆病な愛
私たちは大路を少し外れたところにある静かな宿を取った。二階の奥にある部屋は簡素ながらも清潔感があり、山小屋で一晩を明かした翌日ということもあってどこかほっとする心地だった。
「さて、一先ず宿を取ることは出来たけれど、これからどちらへ向かおうか」
私が淹れたお茶を啜りながら、榧様が思案深げに呟いた。路銀が尽きる前に住処となる街を見つけなければならない。
そこで私は、榧様が茶屋から帰ったあと女将さんが手渡してくれた、巾着の存在を思い出した。
「榧様、此方を……」
そう言って懐から巾着を取り出した。私もまだ中は見ていないのでこれがなにかはわからないが、私の役に立つと言っていたのが気になっていたのだ。
紐を解き、中に入っているものを順に取り出していく。数枚の紙に小さな鍵。更に小銭が数枚入っていた。
「それは……」
「榧様が戻られたあと、茶屋の女将さんに頂いたのです。きっと役に立つと……」
破いてしまわぬよう紙を一枚一枚開いていき、畳の上にそっと広げていく。一つは地図で、もう一つはなにかの書類のようだ。
最後の一枚は女将さんからの手紙で、目を細めてやわらかい声で語りかけてくれる穏やかな彼女らしい、優しい字体で私宛ての文章が書かれていた。流麗な文字を目で追っていると彼女の声まで聞こえてくるようで、一晩しか経っていないのに懐かしい気持ちになる。
「此方は恐らく、土地と建物の権利書だね。どうしてこんなものが……?」
「……もしかして」
女将さんが聞かせてくれた実家の話が脳裏を過ぎる。懐かしそうに、そしてどこか寂しげに話した、女将さんがまだ少女だった頃の話。
――――逃げてきたのに勝手だけれど、それでもあたしは、家族も好きだったの。あの家には思い出もあったから、見知らぬ人の手に渡って知らない家になってしまうことが、堪らなく寂しかったのよ。
女将さんも私たちと似たような境遇であの街に来て、きっとご苦労なさったのだと掻い摘まんで榧様に伝えた。
「だから、思い出としてずっと大事にしているものと思っていたのですが」
手紙に書かれていたのは、私がこの鍵と家の正統な持ち主であると女将さんが保証するというものだった。
「ご亭主はご病気で、女将さんもご高齢だ。お二人が亡くなられたあとは、それこそ見知らぬ誰かのものになってしまう。だから、君に託したのだね」
「私は……知らなかったとはいえ、大変なものを頂いてしまいました……」
鍵を胸に抱きしめて俯く私の肩を、榧様がそっと抱き寄せた。胸に添えた私の手に榧様の大きな手が重なり、心臓が騒ぎ始める。
「託されたのなら受け取って差し上げよう。きっと彼女もそう願ってお蘭に託したのだろうから」
「はい……」
そうだ。ここで恐れて投げ出してしまえば女将さんの故郷はきっと知らない誰かのものになるか、或いは引き取り手もないままに潰されてしまうかも知れないのだ。
他者の人生ともいえるものを受け継ぐことになるなどとは思いもしなかったので、つい後込みしそうになったが、私には榧様がいる。
紙を折り畳んで鍵と共にしまい直し、巾着を今度は懐にただ収めるのではなく首に紐を通して提げることにした。
「大丈夫。弟ほどではないが、私もこういったことは学んでいるから」
「榧様……私にも出来ることがあれば、何なりと仰ってください。私も商家の端くれです。榧様ほどではなくとも、学んできたことはあります」
「ああ、勿論。頼りにしているよ」
頬に唇が触れ、榧様のほうを向けば顎を掬われて口づけがされる。何度も何度も。唇を塞いだまま着物の襟元から手が差し込まれ、ぷくりと熟れた紅い蕾を捕らえた。小さく体が跳ねる度に、機嫌を良くした指が遊ぶ。
「っは……ぁ……榧様、ここでは……」
「ふふ、そうだね。ここはそういうお宿ではないから、これくらいにしておこうか」
胸元から、するりと手が抜けていく。代わりに、先ほどまで悪戯していた手が私の頭を優しく撫で、時折指に髪を絡めては唇を寄せている。
「……そういえば榧様、お訊ねしたいことがあるのですが」
「なにかな?」
「あの……昨晩使った、あの軟膏はいったい……」
「ああ、あれか。やはり気になるかい」
耳まで赤くして頷く私を愉快そうに見つめながら、榧様は話してくれた。
あの軟膏は榧様が十八になった頃、商家同士の付き合いで陰間茶屋に連れ込まれたとき、そこの陰間に教わったのだそうだ。大人になったお祝いに男にもなってこいと言われて行った先が陰間茶屋だというのもどうかと思うが、それ以上に、榧様にそういった経験があったことに、殴られたような衝撃を受けた。
「当時の私はそういったことには全く疎くて、付き合いで来たと馬鹿正直に言ったら陰間は仕事をしなくても部屋代が入るのならそれでといって、ついでに薬や男を抱くときの心得なんかを教えてくれたんだ」
「そう、ですか……」
自分でも何故これほど落ち込んでいるのかわからないのに、いやに沈んだ声が出てしまった。榧様ほどの美男子が全く色事に触れていないわけがないのだ。それなのに私は、今更どうしようもない過去の出来事に嫉妬している。
「……もしかして、それを参考に誰かを抱いたと思ったのかな」
「えっ……ええと、……ごめんなさい……」
「構わないよ。この年になるまで全く経験がないほうが珍しいのだし」
子供のように、くすくすと笑う低い声が耳殻を擽る。私の耳元に顔を寄せたまま、榧様は話を続けた。
「それから何度か通って男の抱き方を教わったんだ。体格差も丁度良かったし、私はどういうわけか女を抱く気にはなれなかったから」
生来の男色なのかなと零した声は、どこか他人事に聞こえた。それより私は、話が進む度に、胸が軋むように痛んで仕方が無かった。聞きたくないと思うのに、意識は構わずに榧様の声へと向いてしまう。そして、
「いつか君を抱く日が来て、そのときに知識がないせいで傷つけてしまったら、私は一生私を赦せなくなってしまう。だから、我ながら情けないとは思いながらも陰間の子に色々教わっていたんだ」
私をきつく抱きしめて、そう仰ったのだ。
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