【椿】完全なる美しさ
母の着物を着て榧様の店で買った小物を身につけ、薄く化粧をした私は、暗がりで多少わかりにくいことを差し引いても、十代の娘にしか見えなかった。
最低限の荷物を風呂敷に包み、手拭いを吹き流しにして、裏口から家を出る。夜になる前に、静が夜逃げをする下女になりすますと良いと助言してくれて、それならとやはり着物は持っていくのではなく着ていくことにしたのだ。
夜闇に紛れ、裏小路を行く。いくら夜中でも大路を堂々と行くわけにはいかない。街を抜けて暫く行くと馴染みの茶屋が見えてきた。だが、榧様の姿はない。暗く人のいない茶屋を見るのは初めてで、余計に心細さが増すのを感じた。
「まだ、時間ではないから……」
自分に言い聞かせ、店の陰にある縁台に腰を下ろす。緋毛氈は片付けられており、竹で組まれた座面は着物を通しても伝わるほどひんやりとしていた。
持ち出してきた風呂敷包みを抱きしめ、祈る気持ちでひたすらに待つ。
「愛らしい方だったな……」
目を閉じていると、夕頃の出来事が瞼に浮かぶ。あれほど怒りを浴びていながらも皆に祝福されると信じていた彼女は、怒鳴られようとも怯まない強くしなやかな心の持ち主だった。
あのやり取りだけでも、彼女が両親や周りに愛されて育ったのだとわかる。
更に彼女は、周りの女性たちが背伸びをして着ている大和屋さんの着物を誰よりも見事に着こなしていた。上等な反物も珊瑚の髪飾も、爪紅で彩られた指先も、全てがあの場の誰より似合っていて、彼女の言でもある「誰よりも榧様に釣り合う」という評価は、決して自信過剰などではなかった。
私は男だ。どれほど母に似ていようと、女の着物を着て、化粧をしようと、女にはなれない。榧様を正しい方法でお救いすることが出来ないばかりか、私の子供じみた逃亡劇に付き合わせようとしている。
ふと、誰もいない隣を見る。そこは昼間、榧様が座っていたところだ。他愛のない話をしていたら唇を塞がれて、榧様も私と似たお悩みを持っていると知ったのだ。
人は、生まれを選ぶことは出来ない。親は子を選べず、子は親を選べない。ならばその先くらいは自分で選びたかった。こんなのは幼子が言う我儘だ。そう思うのに、私は榧様を待たずにこの場を離れて、家に帰ることが出来ずにいる。
「榧様……っ」
お名前を口にした途端、涙が滲んだ。優しい口づけの感触を体が思い出し、吐息が漏れる。体の芯が熱を持つのを感じ、私は風呂敷包みを押しつけて意識を逸らそうとした。だが気を逸らそうとすればするほどに、榧様のことばかりが脳を支配する。
「榧様……榧様……」
早く、早く、お会いしたい。あの涼やかな眼で見つめられて、あの艶のあるお声で名を呼ばれたい。一刻とはこれほど長かっただろうか。もう夜が明けてしまうのではなかろうか。永遠とも思える時間を、私は風呂敷の下に熱を隠しながら待ち続けた。
「蘭……?」
ぎゅっと風呂敷包みを抱きしめながら俯いていたせいで、気付かなかった。傍らに人が立っていて、困惑したような声が降り注いだ。慌てて顔を上げ、月明りに浮かぶ声の主を目に映す。
「榧様……!」
思わず立ち上がって飛びついた私を、榧様は僅かも揺らぐことなく抱き止めた。
その逞しい胸に顔を寄せ、何度も恋しい人の名を紡ぐ。縁台に転げた風呂敷包みが寂しげに見上げていることにも構わず、私はただただ会えた喜びを噛みしめた。
「その格好は……それに、蘭之介君……」
「あ……これは……」
いまの私は、女の着物を着て一物を硬くしている状態だ。恥どころではない失態に顔が熱くなる。来てくださったもののこれで本格的に嫌われてしまったに違いない。そう思って俯く私の顎に、大きな手が添えられて仰のかされた。
「蘭之介君……いや、お蘭。よく来てくれたね」
「や……約束、致しましたから……」
声が上ずり、上手く言葉が出てこない。心臓が五月蠅いくらいに鳴り響いて、耳の奥で鼓動がしているような錯覚がする。酒に酔ったように見つめる私の頬を、榧様は優しく撫でて微笑んだ。
「これは、私を思ってのことだと自惚れてもいいのかな」
「あ……っ」
榧様の大きな手が、私の股間をそろりと撫でた。もう片方の手で顔を捕らえているせいで、目を逸らすことも出来ない。
私は恥じ入りながらも小さく頷き、自身の有様を肯定した。
「榧様の口づけが忘れられず、お会いしたいあまりにこのような……っん、あ……」
やんわりと揉みしだかれ、体が跳ねた。間近に迫る榧様のお顔も、獰猛な雄の光を帯びている。
「んんっ、ふ……ぁ、んぁ……ああっ」
そのまま食らいつくような口づけがされて、私は榧様の手の中で果ててしまった。
ビクビクと腰が跳ね、ふっと体から力が抜けていく。咄嗟に私の腰を支えた榧様の手は頼もしく、僅かも揺らがない。けれど一つだけ、昼間と違う変化に気付いた。
「……あ……榧様も……」
私の腹に当たる硬いそれ。榧様も私と同じだった。
けれど、榧様は私を立たせると、縁台の風呂敷を拾って持たせた。一度街のほうを見、それから私の頭を優しく撫でる。
「いますぐ君を喰らってしまいたいところだけれど、連れ戻されては元も子もない。街道を少し行ったところに山小屋があるから、今晩はそこで過ごそう」
「はい、榧様」
榧様は風呂敷を背負ってきたようで手は空いている。片手に荷物を持った私の手を取り、やわらかく微笑むと、街に背を向けて旧街道を進み出した。
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