【桃】天下無敵

 仮眠から目覚めると、なにやら外が騒がしいことに気付いた。

 玄関から外に出てみれば、斜向かいにある店の前に人だかりが出来ていた。しかもその人の群は大半が女性で、いったいなにがあったのかと遠巻きに眺める人もいる。

 周りの店と比べて一回り大きいあれは、榧様の店だ。


「何事です、騒々しい」

「お祖母様」


 振り向くと祖母が苛立った様子で立っていた。若い娘の高い声を嫌う祖母は、空を劈かんばかりの騒がしさに気が立っているようだ。


「なにやら大和屋さんのほうであったようです。様子を見て参ります」

「構わないけれど、一緒になって騒ぐんじゃないよ」

「はい。店の恥になるような真似は致しません」


 祖母に一礼して私は家を出た。まずは離れたところで様子見をしている男性に話を聞くと、どうやら大和屋の若旦那に輿入れする予定の令嬢が押しかけてきたという。

 まだ親同士が縁談をどうかと持ちかけただけだというのにすっかり正妻気取りで、集まった女性たちの反感を言い値で買い叩いているそうだ。

 少しだけ近付いてから意識を店のほうに向け彼女らの声に耳を傾けると、騒がしい声の一つ一つが徐々に判別出来るようになってきた。


「皆様随分とわたくしのお店に貢献してくださったそうですわね。主人に代わって、お礼申し上げますわ」

「なにが主人よ! まだ見合いの話が出ただけじゃない!」

「ええ。ですがあれほど誰ともお見合いをなさらなかった方が初めてお見合いをすることになったのですもの。それだけで理由は充分ではなくって?」

「あなたみたいな無神経な女が選ばれるわけないわ! あたしたち全員切り捨ててもいいと思えるような人にはとても思えないもの」

「うふふ、選ばれるわけないだなんて。選ばれなかったのは皆様ではありませんの」

「なんですって!?」


 良く通る弾んだ声であまりにも無邪気に悪意なく全方位を煽る高い声の主こそが、件の令嬢なのだろう。いまの言葉で周りの女性たちが歯噛みした怒りの念が此方まで届いてくるほどで、もしその怒りに満ちた視線を一身に受けたら、私だったら後込みしそうだというのに。当の令嬢は、それすらも愉快そうにころころと鈴のような声で笑った。


「さっきから馬鹿みたいに笑って! なにが可笑しいのよっ!」

「だって皆様、ゆでだこみたいなお顔なんですもの。お揃いでどうなさったの?」

「この……っ!!」


 一人の娘が怒りに任せ手を振り上げたが、傍にいた別の娘がそれを慌てて止めた。如何に相手の言葉が悪しかろうと、令嬢相手に手を上げたとあっては家ごとただでは済まなくなる。下ろした手は固く握り締められ、微かに震えていた。

 暫くして、店の奥からひときわ目立つ人が現れた。榧様だ。


「鈴華様、今日のところはお引き取りください。これでは商売になりません」

「まあ、いけない。わたくしったら。旦那様のお店のお邪魔になってはだめよね」


 先ほどまで煽っていたのが嘘のように手のひらを返し、令嬢は大人しく黙った。


「今日のところは帰らせて頂きますわ」


 そう言うと鈴華と呼ばれた令嬢は草履を高く鳴らして店を取り囲む集団をかき分け大路へと出てきた。そしてくるりと店を、そして集まっている女性たちを振り返ると明るい声で言い放った。


「それでは皆々様、わたくしのお店を今後ともご贔屓になさってくださいまし」


 私の位置からは見えなかったが、恐らくとても良い笑顔で言ったのだろうとわかる遠慮も気負いもない声だった。最早自分の店であるかのような物言いに、女性たちは目をつり上げるが、鈴華嬢は周りの様子など全く目に入っていない様子で足取り軽く帰っていった。

 榧様は、器量だけは良い娘だと言っていた。けれど彼女は、商人に嫁ぐのに必要な強い胆力を持っている。ただ、今し方の様子を見る限り、彼女が本当に嫁いできたら女性客は一人もいなくなるかも知れないとも思う。


「……!」


 不意に、榧様と目が合った。けれどすぐに逸らされてしまい、胸が小さく痛んだ。だが、ここで榧様の傍に近付くわけにはいかない。私は店で買い物をするときでさえ彼に声をかけることが出来ない、ただのひとりの客に過ぎないのだから。

 そう自分に言い聞かせるものの、今し方のやり取りが頭を過ぎる。先ほど榧様は、今日のところはと仰っていた。もしかしたらお相手のご令嬢と直接お会いしたことで気が変わったのかも知れない。やはり、店も家も捨てられないと思ってしまったかも知れない。

 彼は毎日、私のように呪詛を浴びて生きているわけではないのだから。


「……でも、私は……」


 接客用の笑みで女性たちの相手をする榧様から目を逸らし、私も家に戻った。


「ただいま。静、お祖母様は?」

「お部屋でお休みでございます」

「そうか……」

「先の騒ぎにたいそうお怒りでいらっしゃいましたので、暫くお部屋には近付かないほうが宜しいかと存じます」

「わかった、ありがとう」


 窓の外は橙に染まっており、間もなく日が暮れる。

 私に出来ることは、榧様が来てくださることを祈りながら、ただ約束の場所で待つことだけ。暮れゆく空を見上げながら、私はそのときを待った。


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