【藍】美しい装い
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
家に戻ると、静が出迎えた。いつものように簡単な言葉を交わして部屋へ戻ろうとする私の背中に、なにやら視線が突き刺さっている気がして振り向いた。
「……坊ちゃま」
「静。どうした?」
「少々、お時間を頂けませんか」
榧様との約束まではまだだいぶ時間がある。
私は頷くと脱ぎかけた草履を履き直し、土間のほうへと回っていった。静は辺りを窺ってから声を潜め、囁くように告げる。
「私の部屋にいらしてください。お渡ししたいものがございます」
「……わかった」
ここで渡さないということは人目を憚る理由があるのだろう。静に続いて使用人にあてがわれている離れに向かい、そのうちの一部屋に足を踏み入れた。
「どうぞ」
「ああ」
勧められた座布団はだいぶ古く、ツギハギで何度も直した跡がある。下女の部屋に客が来ることなど想定されていないだろうから、これは静が使っているものだろう。現に、静は畳にそのまま膝をついている。
「少々お待ちくださいませ」
静は、一言断ると箪笥を開け、奥の奥から着物を一枚取り出した。厳重に隠されていたそれを、丁寧に私の前で開いていく。
「これは……?」
「奥様が輿入れの際に着ていらしたものでございます」
「母が……」
思いも寄らない言葉に、私は言葉を失って着物を見つめた。
それは、呉服屋の嫁が着るものとは到底思えない、言ってしまえば下女たちが着るものと同等のものであった。母が庶民の生まれであることは聞いていたが、嫁入りのときに着るものすらないほど貧しい家の生まれだとは思わなかった。
「奥様が更にそのお母様から譲り受けた唯一の着物で、ずっと大事にしておられたのですが……」
静は言いづらそうに言葉を切り、暫し黙してからすうっと息を吸って続けた。
「大奥様が奥様を追い出される際、奥様の持ち物を全て捨てるよう私に命じました。ですが私は、奥様が着物のことを話してくださった日の穏やかなお顔が忘れられず、こうして今日まで隠し持っておりました」
「そうだったのか……お前にも苦労をかけてすまない」
「いいえ」
静はきっぱりと言い放つと、着物をすいと私のほうへ差し出した。
「静は、奥様や坊ちゃまに仕えられてしあわせでございました」
まるで、ここで終いであるかのような物言いでそう言うと、静は三つ指をついた。
「静……」
「……坊ちゃまは決意をされたお顔をしておいでです。赤子の頃からお仕えしていた静にはわかります。最後まで、静は坊ちゃまのためにお仕えしとうございます」
「そう、か……」
最早それしか言えなかった。生まれたばかりで捨てられていく私の兄弟を見送り、私が祖母に厳しく躾けられているのを見守り、いつでも傍にいた静にはなにもかもを見通されていた。
「この着物を共にお連れくださいませ。静はいつか再び坊ちゃまにお仕えすることが出来るよう、奥様の着物を目印に坊ちゃまの元へまいります」
「お前は、どうしてそこまで私に……」
静は苦しそうな顔で、苦しい声を落とした。
「奥様をお救い出来なかった償いがしたいのです。これはただの我儘にございます。奥様には、最後までお仕えすることが出来ませんでしたから……」
伏して請う静の指先は白くなっていた。下女の立場で祖母に物申すことなど出来るはずもなく、なにもかもをただ見過ごすことしか出来なかったのは事実であろうが、静に罪はない。それでもと願うなら、私は静の思いを叶えてやりたかった。
「ならば、いずれ追いついておいで」
「坊ちゃま……」
「店のことは気にしなくていい。お祖母様がどうとでも好きにするだろう。これまでそうであったのだからね」
私の言葉に、静は平伏して何度も礼の言葉を口にした。
受け取った着物はたとう紙に包み直して大事に胸に抱えると、私は静の部屋を出て自室に戻った。
「引っ越しではないのだから、あまり多くは持って行けないな……」
元々物持ちではないから構わないのだけれど、すっかり家を出るとなるとさすがに厳選しなければならない。
母の着物は当然持っていくとして、他に必要なものはなにがあるだろうか。
「……これは、置いていけないな……」
何度も通ううちに集まった榧様の店で買った小物たち。手鏡、帯、帯飾り、髪飾、半襟……着物以外は全て揃っている。化粧道具も祖母への反発心からいくつか買ってしまったものがある。といっても普段からお洒落をしている娘たちが見ればあまりになにも足りていない、ままごと程度の数だけれど。
「ああ、そうだ」
ここまで揃っているのなら、家を出るに相応しい格好があるじゃないか。
鏡の前に立ち、笑みを作ってみる。私はとても、母に似ているらしい。
万一祖母に見つかってしまわぬよう行李に着物一式をしまうと、その上に普段着を重ね置き、私は夜に備えて少しだけ眠ることにした。
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