【藤】恋に酔う

「いっそ、全て捨ててしまえたら……」


 零れ落ちた言葉は、決して叶わぬ願いだ。逃げたところで、行き場もない。ひとり遠い地で生きていく度胸もない。

 不意に、情けない声を漏らした私の体を、榧様の逞しい腕が抱きしめた。


「榧様……?」

「……逃げて、仕舞おうか」

「榧様、それは……」


 そう出来たならどんなにいいか。ひとり逃げる度胸がなくとも、榧様となら私は、どこでだって生きていける気がする。


「……すまない。君の立場も考えずに無責任なことを……」

「本当に」


 身を引こうとした榧様を、私は思わず抱き止めていた。

 背に回した腕は榧様に比べてだいぶ細く頼りない。広い背中に回りきるかどうかという私の腕を、榧様は振りほどくことなく動きを止めた。


「本当に、私と生きてくださるなら、私は……」

「蘭之介君……」


 耳殻に、熱い吐息が掠める。息の仕方を忘れてしまったかのような声が、私の胸に重く降り積もっていく。

 一目惚れというなら私も同じことだ。けれど良家の令嬢たちと違い、私はどれほど母に似ていようとも男だから、榧様と共に生きる未来などありえないと思っていた。せめて、榧様が店を継がれて相応しい伴侶をお迎えになるまでは、女性たちに紛れて遠くからでもお姿を目に焼き付けていられればと思っていたのに。


「本当に、いいんだね?」


 間近で見つめる榧様の目は本気だった。名も立場も店も捨ててしまわれるつもりでいる。ならば私の答えは一つしかない。


「はい……榧様と共にいられるのなら、どこへでも……」


 私がそう答えると、榧様は耳元に顔を寄せてそっと囁いた。


「今日、子の正刻、ここで」


 それだけ伝えるとスッと立ち上がり、最後に身を屈めて額に口づけをすると、来た道を戻っていってしまった。仕方ない。街外れから並んで帰れば、なにを言われるか知れないのだ。

 戻る時間が重ならないよう、私は榧様の背が見えなくなるまで見送った。暫くしてそろそろ良い頃だろうかと立ち上がりかけたとき、女将が店から出てきた。


「女将さん、お会計だね」

「それもあるけれど、坊ちゃん、ちょいと手を出しておくれ」

「うん……?」


 理由がわからないなりに言われたとおりにすると、女将さんは私の手に小さな袋を握らせた。少し大きな匂い袋にも見える巾着は、見るからに手縫いとわかる作りだ。


「暫く会えなくなるようだからね、おばあちゃんからの選別だよ」

「……っ!」


 驚いて目を瞠る私を、いつものやわらかな笑みが見つめる。


「ごめんよ。所々話が聞こえてしまってね。それにしても、懐かしいねえ。あたしもじいさんと駆け落ちしてここに来たんだよ」

「えっ……」


 いままで全く知らなかった女将さんの過去に触れ、思わず聞き入ってしまった。

 私の両親とは逆で、女将さんが良家の子女で旦那さんが庶民だったらしい。当然、女将さんの親は結婚どころか付き合いすら反対するが、女将さんは旦那さんの「君と遠くで茶屋でも営みながら、静かに暮らしたい」との言葉に頷き、夜に紛れて逃げてきたのだそうだ。

 女将さんの家族はまさか娘に逃げられたなどとは言えず、表向きは誘拐事件として簡単に捜査させたものの、無理に連れ戻そうとはしなかった。その家は事業の失敗や従業員の裏切りなどが重なって廃れてしまい、いまは住む者もいない空き家となっているのだそう。


「うちは、兄弟が多かったから、あたし一人くらいいなくなったって構いやしないと思ったの。実際、本当に構われなかったわ。でも……」


 駆け落ちなどと勝手な真似をしたとはいえど、幼少期を過ごした家が縁もゆかりもない他人の手に渡るのは寂しいと思っていた矢先。女将さんの元に実家からの手紙が届いた。それは女将さんがそこまで本気だとは思っていなかったことや、遠く離れてしまってからも忘れたことはなかったということなどが書かれた手紙と、もしなにかあればこの屋敷を売って足しにするようにとの文言を添えて、家の権利書が同封してあったそうだ。

 構われなかったのは、見放されたからではなかったのだ。そのことを、女将さんは家族を全て失ってから知った。いったいどれほどの後悔を抱いたことだろう。


「未来がどうなるかなんて、誰にもわからないものね」


 話しながら、女将さんは私の手の中にある巾着に目を落とす。中には折り畳まれた紙と硬いものが入っているようだが、それが何なのかまではわからない。選別にと、お手紙をくださったのかも知れない。


「それ、きっと役に立つわ。もし誰かが探しに来たら、あたしは知らない振りをしておくからね、達者で生きるのよ」

「ありがとう……女将さんも、どうか息災で」


 お茶のお代を払って一礼し、巾着は懐にしまって、私は街へと戻った。

 昼を過ぎてだいぶ経った大路はそれでも賑やかで、いつになく私は自分がこの街の一員だと思えなくなっていた。

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