【榧】忍耐

「わ……若旦那、様……?」

「蘭之介君。どうか私のことは榧と呼んでおくれ」

「……榧様……」


 何故、どうしてと頭の中で巡る疑問は、言葉にならなかった。

 代わりに濡れた唇から漏れたのは、目の前の美しい人の名前。

 混乱する頭の片隅で、彼はこうして数多の女性を惹きつけているのだろうかと妙に冷静なことを思った。


「榧様、何故ですか……? 何故、私に……」

「……このような真似をしておいて、理由も告げずにいるのは不誠実が過ぎるかな」


 若旦那……いえ、榧様は、苦しそうな表情のまま静かに話して聞かせた。まるで、気の早い梅雨が訪れたかのような重たい空気が、晴れ空など見えていないかのように私たちの周りにだけ垂れ込めている。


「……ずっと君に触れたいと思っていた。初めて店を訪れた君を見たとき、一目見て心を奪われてしまった。君も知っての通り、店に出ているとき、私は多くの女性客を相手していて、他の客に手が回らないことが多いんだ。今日は会えても次はないかも知れないといつも思いながら、それでも彼女たちを振り切ることが出来ずにいた」


 良い着物を着て、綺麗な化粧をして訪れる美しい女性たちに囲まれながら、意識は私だけに向いていたと言う。賑わう店の隅で、ともすれば盗みに来た輩のように用を済ませてこそこそと去って行く私を、榧様は見ていたのだ。

 途端に恥ずかしくなり、頬が熱を持った。すると榧様の手が私の頬に触れて優しく宥めるように撫でた。その手つきに勘違いしそうになって、私はそっと目を伏せた。これ以上榧様と目を合わせていたら、戻れなくなってしまいそうで。


「だが今日は、いつもと違ったんだ。痺れを切らした父が縁談を持ち込んできてね。相手の娘は器量だけは良い箱入りのお嬢さんだ。心に決めた相手がいないなら縁談を進めると言われて、居ても立ってもいられず……」


 あのあとすぐ言われたのであれば、きっと榧様に群がっていた女性もそれを聞いていたことだろう。足繁く通い詰めて、高い反物や簪を買っては身につけて、若旦那に取り入って、そうしていずれはと思っていた女性たちの心境は如何ばかりか。


「……なにも、長男でなければ店を継げないなどというわけでもあるまいし、私には二つ下に少々無愛想だが商才に溢れた優秀な弟もいる。父も健在なのだから急ぐことなどないと思っていたのに……」

「榧様……」


 生まれた家の生まれた順で、榧様も苦しんでいる。そう思ったら、私は気落ちした榧様の右手を両手で包んでいた。


「蘭之介君……?」

「私も、榧様のお気持ちはわかるつもりです。家名と立場が許さないことばかりで、息が苦しくなる思いで、それでも家や名を捨てることが出来ずにいることも……」


 さらりと私の長い髪を梳く指の感触がして、思わず目を閉じた。それを合図に再び口づけがされたけれど、今度は穏やかな気持ちでそれを受け入れた。


「っ……は……」


 熱を帯びた吐息が掠め、心臓が跳ねる。男の私ですらこうなのだから彼に懸想している女性は気を失ってしまうのでは無かろうか。


 ――――ああ、そうか。

 私が女性であったなら、彼を救うことも出来たかも知れないのだ。


「……もしも、私が女に生まれていたのなら……ただの娘であったなら、榧様を家の柵から救って差し上げられたのでしょうか……」


 そう心のままを言葉にすると榧様は目を瞠って私を見つめた。つい図々しいことを言ってしまったと思い開きかけた口を、榧様の唇が優しく塞ぐ。


「君は、私のような不躾な男に、どうしてそこまで優しいことが言えるんだ……?」


 私は榧様の手を握り、指を絡めながら、口元に笑みを引いて首を振った。

 確かに、ろくに話したこともないのに口づけなど不躾にもほどがあることを榧様はなさったけれど、私は思うほど嫌ではなかった。だってずっと、榧様に片想いをしていたのだから。


「私も同じだからです。祖母の呪詛を浴びて生きなければならないことも、跡取りという立場に縛られていることも、ずっと胸が潰れそうな思いでいるのにどこにも行くところがないことも……榧様と同じなのです」


 境遇が近いがための同情でしかないと、頭ではわかっているのに。榧様を思うと、胸が締め付けられる思いだった。そして望まぬ相手との縁談は他人事ではないのだ。いずれは私にも縁談の話は舞い込むだろう。祖母の目に叶った良家の子女との、店のためだけの婚姻話が。

 私が嫁を取り、その女を抱いて己の子を産ませるのだと考えるだけで寒気がする。祖母に刷り込まれた呪詛は、私の深いところまで蝕んでいて、きっとこの先まともに女性に恋をすることもないのだろうと確信出来るまでになっていた。


「蘭之介君も、苦しんでいたんだね……しかも君は、確か一人息子だったはず」

「はい。祖母は私の妹を産婆に捨てさせ、私が乳離れすると母をも捨てましたので」

「それは随分と苛烈な……いや、私が言っていいことではなかったね。済まない」


 私は首を振り、榧様の手を握り締めた。

 店のために生まれ、店のために生き、そして店のために死ぬ。抑々私はいままでの人生で生きていると実感出来たことなどあっただろうか。挨拶代わりに呪詛を受け、見知らぬ母を疎む素振りをしながら己の生まれを呪う日々の中に、生を感じたことはあったのだろうか。

 自問に対する答えは、考えるまでもなく私の中にあった。

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