【蘭】美しい淑女

 裏口から外に出て、表通りへと向かう。いくつも並んだ商家の通りを、たくさんの人が行き交っている。大路に構える店はどれも立派で、その中でも一番の大店である呉服屋へと入り、店に群がる女性たちに紛れて棚を物色した。

 この店には二十一になる若旦那と十九歳の弟がいる。店に通う女性たちの目的は、大半が彼らだ。特に、跡取りの有望株と言われている長男のほうに顔を覚えてもらうためだけに通い詰め、身に余る反物などを買っていく。それが出来ない者は遠巻きに秋波を送ることもある。

 若旦那は見目も良く愛想も良い好青年で、しかも大店の跡取り候補。姑は他界し、嫁姑の諍いもなさそうな好環境だ。これほど嫁入りを願う女性にとって目を引く要素ばかりの男ならば条件の良い見合いの相手など掃いて捨てるほどありそうだけれど、二十一という年齢となったいまでもそれらしい話を聞かない。噂好きの娘たちの口にさえ乗らないのだから、本当に見合いは全て断っているのだろう。

 とはいえ、男の私には関わりのないこと。どれほど焦がれようとも届くはずのない相手。男に色目を使われたなどと思われたら、見合いがあったどころではない騒ぎを起こしてしまう。彼女たちのように堂々と着飾って彼に話しかけることが出来たならどれほど良かったかと思う日が、少しもないとは言わないけれど。

 若旦那を一目見ようと群がる人を後目に小物を一つ買って、私は早々に店を出た。


 そのとき私は逃げるように店を出ていたから、気付かなかった。

 若旦那が女性たちに包囲されながらも、駆け去る私を見つめていたことに。


 大通りを外れて暫く行くと、一軒の茶屋がある。喧騒から外れたこの店は老夫婦が経営している古い旅人向けの茶屋で、明治の頃は旅の芸人やら商人やらが入り乱れ、実に繁盛していたという。

 いまやその賑わいも遠く、街道跡に嘗ての盛況を夢みる静かな空間となっていて、緋毛氈が敷かれた縁台は店の陰になっているため、通る人の目にも触れない。

 ご夫婦のうち旦那さんはあまり表には出てこなくて、私も姿を見たのは数ヶ月前に一度きりだ。何でも、肺を悪くしているらしい。


「女将さん、久しぶり」

「おやまあ、坊ちゃん、久しぶりだねえ」


 柔和な目尻に人の良さそうな皺を刻んで出迎える彼女は、孫でも迎えるかのように私に笑いかけ、縁台に座ると同時に熱いほうじ茶を出してくれる。


「いつものでいいのかい?」

「ああ、お願いするよ」


 みたらし一つに大福一つ。

 この店を訪れる度に同じものを頼むものだから、すっかり覚えられてしまった。


「お待たせ」

「ありがとう」


 私が店を訪れるときは、喧騒を避けるためだと知っている女将は、茶菓子を出したあとは店の奥に引っ込んでいる。客に構い過ぎないほどよい距離感もあって、ここはとても居心地が良い。

 供された団子と大福を膝に置き、まずはみたらしを一口。私は昔の味を知らない。七つの頃から通い続けているけれど、この茶屋は私が生まれるずっと前から、ここにあるものだから。それでも何となく、茶屋が出来てからずっと変わらないのだろうと思わせる落ち着いた甘さが心地良かった。

 すっかり華奢な姿となった串を空の皿に置き温かいほうじ茶を啜っていると、隣に誰か腰を下ろす気配がした。目の端に映る着物は上等な男物だ。しかも真横を向いただけでは顔が視界に入らないくらい背が高い男。

 ちらりと目をやれば、なんと先ほど買い物をして出てきた店の、若旦那様だった。精悍な顔つきは真横から見ても変わらない。

 私の視線に気付いた若旦那が此方を向き、柔和な笑みを浮かべた。


「こんにちは。近頃、よくうちに来てくれているようだね」


 若旦那は私を眩しそうに目を細めて見つめながら、そう言った。よもや覚えられているとは思わなかった私は、暫し答えに窮してしまった。


「覚えて、いらしたのですか」

「大路に並ぶ同業からのお客とあらば、見知り置いていて損はないだろう」


 成る程と思った。私も似たような理由で通っていたのだから。最近は若旦那と店に仕入れられる小物が目当てになりつつあるのだが、いまそれを話したところで苦しい言い訳にしかならないので、口には乗せなかった。


「そういうことでしたら、私も若旦那様のお噂はかねがね伺っております」

「はは、行き遅れの若旦那として有名だからね、私は」

「あ……いえ、そんなつもりでは……っ」


 慌てて取り繕う私を優しい眼差しで見つめていたかと思えば、若旦那の端正な顔が私の視界を塞いだ。そして形の良い唇が、私の唇を塞いだ。

 なにが起こったのか、一瞬理解出来なかった。熱く濡れたものが下唇を這い回り、それから湿った音を立てて優しく啄まれた。咄嗟に若旦那の肩を掴んだが、その手は自分でも意外なほどに弱々しく、ただ縋り付いただけに終わった。


「っ、は……」


 唇が離れると、苦しい吐息が胸の奥から零れた。目に浮かんだ涙を拭う長い指が、とても優しい。まるで恋人にするかのような仕草に、私は混乱することしか出来ずにいた。


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