青柳に徒花添いて

宵宮祀花

【茜】誹謗

 ――――お前は、あの女のようにはなるんじゃないよ。


 祖母は口癖のように、私にそう言って聞かせた。

 朝晩の挨拶より聞いた言葉。それは呪詛のように私の心を染め、そしてなによりも祖母自身を蝕んでいた。

 私の母は、私ともう一人妹を同時に身籠ったという。畜生腹の浅ましい女。それが祖母の母に対する評価だった。大路に面した大店を構える商家から畜生女が出たなどと知られては体面が悪い。ゆえに母は、子を身籠ってからは暗く狭い離れから一歩も外に出されなかった。

 若い下女が朝晩に食事を届けに来る以外、人と会話をすることもない空虚な日々。旦那とも決して顔を合わせず、私と妹を産み落とすときでさえ、産婆とその手伝いの女だけが場に居合わせることが許された。

 嫁入りした頃は美しく艶やかだった黒髪は山姥のように荒れ、薄紅の頬をしていた肌の色もくすんで褪せてしまい、ふっくらとしていた胸や腿も痩せ細っていった。

 その様を世話役として見ていた下女たちは母に同情したが、しかし、誰も祖母には逆らえなかった。反対を押し切って結婚したはずの、父でさえも。

 当時は下女見習いだったしずか曰く、産婆はおくるみを一つ持ち出て行ったそうだ。

 跡取り以外は必要ないから川にでも捨てるよういわれたのではと静は言う。憐れに思っても十二歳の下女に赤子を引き取る余裕などあるはずもなく、胸を痛めつつその背を見送ったのだそうだ。

 私は母の顔を知らない。私を産み、育てて、乳飲み子でなくなった頃に用済みだと家を追い出されたから。彼女がいまどうしているかも知らない。誰も言わないから。

 私は跡取りとしてそれは大事に育てられた。そして同時に、祖母からの例の呪詛も毎日受けて育った。


「蘭之介。お前はあの女のようにはなるんじゃないよ。あの女のような、穢らわしい嫁も取るんじゃない。お前は商家の跡取り息子なんだから、見る目がないと知れたら店の評判に関わるんだ。いいね」

「はい、お祖母様」


 祖母は私が出生の秘密を把握しているとは夢にも思っていない。幼心に母の話題は禁句であろうと察していた私は、決して祖母の前で彼女のことを話さなかった。常に祖母の意にそぐう良い息子を演じて、母を恥じていると見せかけて生きて来た。

 顔も名も知らぬ女を、軽蔑しているふりをしてきた。


「お前はよく出来た息子だ。お前さえいれば我が家は安泰だろうよ」

「もったいないお言葉、痛み入ります。お祖母様の教育のお陰です」

「まったく、あの女から生まれたとは思えない優秀さだこと」

「おやめください。私も、そのことは恥じているのです」

「ああ、そうだったね」


 機嫌が良さそうにそう言うと、祖母は奥の座敷へと下がっていった。

 祖母は心の臓を患ってからというもの、あまり店を開けなくなった。それもあって私を早く店の主に育ててしまいたいのだろう。

 無人となった庭を眺め、一人息を吐く。立派な庭園も大きなお屋敷も、祖母の傍にいるだけで、なにもかもが色褪せて見える。祖母に合わせてご機嫌取りのためだけに心にもない呪詛を吐いていると、自分の胸の内まで黒く淀んでいく気がして、憂鬱になる。

 写真でしか知らない若い頃の父は、それは大層な男前で、町中の娘が懸想をしたという。母はそんな父に色目を使わなかった唯一の娘だからと、父が却って気にかけたことがきっかけであったそうだ。平民の娘だからと祖母は反対したようだが、それを押し切っての結婚であった。だからこそ、双子なんぞを孕んだことが許せなかったのだろう。


 ――――なんて悍ましい女だろう。犬か狐かしれたもんじゃないよ。打ち殺さないだけありがたいと思うんだね。


 下女は、外に対しては口が堅いが内には甘い。菓子や花を贈るだけで母と祖母とのあいだにあった出来事の殆どを聞き出すことが出来た。

 私はどうやら母に似ているらしいことも、彼女らから聞いた。だからこそ祖母は、毎日あの言葉を繰り返すのだろう。

 仰るとおりに致しますとも。あなたが生きておられるうちはあなたの家ですから。私はあくまで跡取り息子。母のようにはなりますまい。


「あの女のようにはなるな。それは、跡取りの男児を残すなということでしょうか」


 鏡の前で身支度をしながら、鏡面に映る自分に語りかける。


「あの女のような嫁を取るなということは、旦那でも迎えれば良いのでしょうか」


 小さく呟きながら、髪紐で長く伸ばした髪を結う。

 髪を長く伸ばしていると祖母が知ったとき、一度は女々しいと眉を顰めたけれど、見目に惹かれてくる女などろくなものではないと誰よりも知っている人なので、そういう女を避けるためだと方便を並べたら、それっきりなにも言わなくなった。


「私は、十四になりましたよ、お祖母様。あの日の母も、十四だったそうですね」


 きっと鏡に映る私は、父と出会った若き日の母とよく似ているに違いない。


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