第9話

 ドンドンドン! と叩敲(ノック)にしては激しい音が太宰の部屋に響いた。時間は夜。人が訪ねて来る予定は無いはずだ。

 ドンドンドン! 音は鳴りやまない。太宰はわかっていた。この叩敲(ノック)は放置しておいてはいけないやつだ。


「はぁい?」


 太宰が仕方なく玄関の扉を開ける。と、同時に頬に拳が当たり、太宰は後方に大きく吹っ飛んだ。


「太宰あんたねえ!! 帰ってるなら携帯の電源くらい入れなさいよ馬鹿!!」


 詠が仁王立ちしていた。


「あたた……きみだろうと思っていたけど、出会い頭に殴られるとは予想できなかったな」

「嘘つけ! 予想くらいしてたでしょ!?」


 いつもと視線の高さが逆の状態で、詠は怒りで眉を吊り上げていた。まあ、そうだ。予想はしていた。ただ、それをかわすと更に面倒な事になるので殴られたのである。


「何度電話しても出ない! 連絡も無い! 下宿にもいない! 一体この数日どこほっつき歩いてたの!!」


 太宰が行方不明になって数日。敦の件で捜索が進んでも、誰も太宰の捜索をしようとはしなかった。太宰ならば死ぬはずがない。どこかの川でも流れているのだろう。と、普段の行動のせいで相手にされないのである。

 そして漸く今日、太宰の部屋に明かりがついた。それを見て、詠はやって来たわけだ。


「詠くん、私のこと心配してくれてたのかい?」

「はあ!?」


 太宰の問いかけに詠は一歩前に出た。太宰は一歩後ろに退った。


「別に心配なんてしてないけど!? 私は、社員が一人いなくなっても誰も捜索しようとしないうちの探偵社の怠慢に怒ってるの!!」

「はあ……それでは、何故私は殴られたのだろう」

「いなくなったあんたがそもそもの原因だからに決まってるでしょ!!」


 太宰は考える。云い分はわかる。いなくなった自分が悪い。尤もだ。捜索もされなかった。悲しい事ながらこれも本当のことだ。……はて、何故家に突撃されたのだろうか。理由はわかっているし、先刻尋ねた通りだ。二度同じ事を聞くとまた拳を受ける事になる。何を言っても怒られるであろうこの状況で、太宰は一つの解を導き出し、ぽんと手を打った。


「よし。わかった。では、こうしよう。今から飲みに行く」

「あんたねえ!! そんなので私を言いくるめようったって……」

「おや。行かないのかい?」


 詠はぐっと言葉に詰まり、


「太宰の奢りだからね!!」


 と叫び、そのまま部屋を出て行った。

 太宰はぶはっと息を吐き、漸く立ち上がった。急いで外套を手に取って部屋を出た。


「詠くん、ちょっと見ない間に縮んだ?」

「しね」


 こうして二人は馴染みの居酒屋へとやってきた。いつものだし巻き卵、焼き魚、豆府の厚揚げと、詠のお好みの物を太宰が先に注文した。


「では、私の帰還祝いにかんぱーい!」


 太宰がウヰスキーのグラスを掲げたが、詠は先に日本酒を飲み始めていた。太宰は少し残念そうにしながら、酒に口をつけた。


「それで、何処の川を流れてたの」


 無言で数杯グラスを空にした頃、詠が云った。

 太宰はようやく会話をする気になったらしい詠に向かって、笑みを向ける。


「よくぞ聞いてくれたね! それが今回は川ではないのだよ。かの有名な自殺の名所と云われる森に行ってみたのだけど、ただ道に迷うだけでさっぱり死ねない。おまけに熊やら狸やら出てくるし、私は下界に帰って来るまでにさながら白雪姫のように動物たちと戯れることで日々を過ごし――」

「ふーん。それで、七十万の用意出来てる?」


 太宰はぴたりと動きを止めた。


「……なんだって?」


 その値が何を指すのか、太宰はすぐに理解した。

 だから、驚いた。何故なのかと。

 詠は何も言わなかったかのように日本酒の追加を注文した。


「詠くん――」


 太宰の言葉を遮るように、詠は一気に呷った日本酒で喉を焼きグラスを叩きつけた。


「なんで元ポートマフィアの人間が探偵社にいるの」


 詠は卓子を挟んで太宰を睨みつけていた。

 太宰はグラスを持ったまま固まっていた。手の熱で溶けた氷がカランと鳴る。


「す――」


 太宰はなんとか声を絞り出した。


「すごいよ詠くん! 大正解だ! では、この賞典七十万は月下部詠くんへと進呈し――」

「黙れ」


 低く唸る。


「質問に答えなさい」


 太宰はくすりと笑みを浮かべた。


「以前の職業について嘘は吐かないと云ったけど、それ以上のことを教えると云ったことはないよ」

「……チッ」


 詠は盛大に舌打ちした。

 そして追加の日本酒を注文する。


「まあ、興味ないからいいけど」


 とくとくと一升瓶から注がれる日本酒を見ながら、詠は云う。


「私からの質問を許して欲しい」


 店員が去り、太宰が真剣な表情で云う。

 詠は答えない。


「君がこの答えに辿り着くには、相当な労力がかかった筈だ。まず、市民の聞き込み。私がいなくなった時刻と場所、そして原因の特定。そこからの推測だ。あそこに監視カメラはなかったし、目撃者だっていたとしても簡単には話してくれるような人間ではなかったはず。それなのに何故――」


 君は、そこまでの労力を割いたんだ。

 カラン、とまた氷が鳴る。

 詠は日本酒を半分呑み、グラスを口から離した。


「別に。あんた難しく考えすぎじゃない?」

「え……?」

「あんたが何処かに攫われて、五体満足で帰って来たってだけで、マフィアの関係者ですって云ってるようなものでしょ」

「……その発想はいささか突飛すぎると思うのだけど、いかがでしょうか詠さん」


 思わず敬語でおずおずと手を挙げ問いかける。

 はあ、と詠は溜め息を吐いた。そして口を開こうとして、閉じた。


「云おうと思ったけどやめた」

「え、詠くん」

「やめたったらやめた」


 詠は冷めただし巻き卵を取り皿にとって、半分にして口に入れた。

 今度は太宰が溜め息を吐いた。こうなったら、絶対に話してくれやしない。


「ところで、詠くん明日非番?」

「普通に仕事。二日酔いの私の代わりに働きなさいよ」


 そう言いながら、詠は残りの日本酒を呑み干した。


「あ、そうか。そういうことか」


 それから数時間後。酔いつぶれた詠を背負っての帰り道で、ようやく太宰が詠の思考に追いついた。

 夜空を見上げると、少し欠けた月がそこにあった。

 詠の異能は『未来予知』だ。月の満ち欠けによって見える時間が変わり、満月の日は『数日後』まで見える。詠は推理したのではない。数日前の満月の日に、今日太宰が無事に帰って来ることを『予知』していたのだ。

 以前、詠に「陽の当たるところの仕事なんてしてないでしょう」と云われた。それに「いい線いってる」と返したことを覚えている。陽の当らないところにあり、且つ探偵社社員という特に攫う理由もない人間を攫い、さして戦闘能力の高いわけではないのに五体満足で帰って来れる組織は確かに限られているだろう。詠はそれを「ポートマフィア」と推理した。恐らく、役職がどの程度かまで理解しているだろう。


「……満月なのにお酒呑まなかったんだね。いつもなら、意識が朦朧とするまで呑んで予知なんてしないのに」


 ふ、と太宰は苦笑する。

 詠は自分の異能を嫌う。満月も同じく。だからいつもは誰かしらを連れて呑みに出ているはずなのに、今回の満月はそうはしなかった。


「いやあ、愛されてるなあ、私」


 本人に聞かれたら殴られるだけでは済まなさそうなことを一人呟き、太宰は軽い足取りで下宿へと帰る。

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