第3話 無慈悲な異動命令
寺崎さんは、そのまま、少しの間一緒にいてくれた。
さすがにこの部屋に入って、彼女に何を聞くというわけにもいかず。ずっとまわりを見ていたが、奥の方で、キーボードを叩く音が聞こえてきた。
最初は、
「あれ? そんなに早い音ではないな」
と思っていたのだが、それも無理もないこと、自分が知っているキーボードを叩く音というと、それは、
「伝票を入力する音で、基本的には、数字を打っているからだ」
ということであるのに対し、ここにいる人は、ほとんど、アルファベットを入力していたのだ。
そういえば、伝票入力する時というのは、まず、数字のキーとエンターキーか、矢印キーくらいしか使わない。要するに、
「右側のテンキーと呼ばれる部分しか使うことはない」
といってもいいだろう。
それを思うと、
「こんな大きなキーボードでなくて、電卓のようなキーボードでいいじゃないか?」
と思ったのだ。
本当に、アルファベットのキーを打つことがあるなどということを想像もしていなかっただけに、余計におかしな感覚に思えたのだ。
しかし、後ろから、
「先輩社員が、叩いているのを見ると、
「キーボードをいっぱいに使って打っている」
というのを見ると、
「俺も、あんな風にならないといけないのか?」
と、まず、最初の課題が見えた気がしたのだ。
ただ、もう一つ今までと違ったのは、支店の朝の業務というと、電話が鳴らないだけで、結構慌ただしいものだった。
「ボーっ」
と立っていれば。
「何やってんだ。邪魔になる」
と言わんばかりになるだろう。
しかし、システム室と呼ばれるところは、邪魔になるというよりも、皆端末の前に座って、画面だけを凝視している。
つまりは、
「まわりが何をしていようと関係ない」
という状態で、
「逆に、ウロウロされる方が、気が散って仕方がないと言わんばかりであった。
要するに、支店では、
「何かを自分からしないとダメであり、とにかく、行動が先にくる」
という、まるで、
「昭和の考え方」
のような感じで、
「肉体労働が伴ってこその仕事だ」
という雰囲気が、醸し出されていた。
しかし、
「システムというところは、個人個人が黙々と仕事をするところだ」
ということはよくわかったのだ。
じっと見ているだけで、背中にオーラが滲み出ていて、見ている限りでは、
「俺にできるのだろうか?」
ということであった。
確かに、今までの自分から考えれば、まったく違う仕事なので、できるだろうか?
というのが一番の考えだった。
ハッキリとその時に分かったのは、
「今までとはまったく違う仕事で、それなりの覚悟をしておかないと、やっていけない」
ということであった。
そのうちに、システム部長がこられ、会議室に、寺崎さんと森山の二人を発見し、
「ああ、君が森山君ですね?」
と、眼鏡の奥から優しそうな視線を向けてくれたことで、森山は安心したのだった。
「はい」
と森山がいうと、その後すぐに、寺崎さんが、森山に、
「この方が、システム部長の、宮本部長となります」
と傷害してくれた。
森山のことは、部長自らが聴いたので、それに対して答えることがなかったということで、
「暗黙の了解」
ということになるのだろう。
それを考えると、
「寺崎さんの仕事は終わったな」
と思っていると、寺崎さんは、二人を覗き込むようにして、
「それでは私は、自分の部署に戻らせていただきます」
というので、森山は、軽く会釈をしたが、宮本部長は、
「わざわざありがとう」
と、席を立って返事をしていた。
かなりキチンとした人なのだろう。
それだけ、システム部長としては、
「できた人だ」
ということになるだろう。
部長が説明してくれたのも、ありきたりのことであり、
「実際に、細かいことは、明日から、先輩たちが、業務の合間に、それぞれの強い部分を教えてくれるから安心していいよ」
ということであった。
すると、また、隣の扉が開いた音がした。
そこには、これも、真新しいスーツに身を包んだ一人の若者が立っていた。
まぁ、若者といっても、森山も十分に若いのだが、このフレッシュさは、
「新入社員だろう」
と思っていると、その考えに間違いはないようだった。
「松下と言います。本日付けで、システム部配属を言われましたので、参りました。よろしくお願いします」
といって、頭を下げると、宮本部長から。
「どうぞ、座ってください」
と言われ、座ったが、その時、こちらをチラッと見て、どうにも、釈然としない表情をしていたのだ。
「きっと、新入社員だとすると、その中で自分の顔を見たことがないのに」
とでも、思ったのだろう。
新入社員であれば、それも当然のこと。ただ、隣にいる森山が、
「どこの誰なのか分からない」
ということであろう。
それを下手に勘ぐって、
「この青年は、俺に挑発的だ」
と最初から、挑戦的に思ってしまうと、そこから先、話ができなくなる恐れがある。
もし相手は新入社員だったとすれば、こちらが、
「大人の余裕」
というものを、醸し出して、優位に立てるくらいのことを考えればいいだろう。
ただ、こちらも、入社が早いといっても、この部署では同じ、
「新人」
である。
しかも、相手は、
「最初からこの部署だ」
ということであれば、そういう学校を出た、専門家なのかも知れない。
それを思うと、
「あっちが優位に立つことも十分にありえる」
と感じたのだ。
部長は、軽く話をしたうえで、
「今日は、二人に今から、コンピュータ基礎の勉強会に行ってもらいたい」
というではないか。
松下を見ると
「はい」
といって立ち上がった。
「この松下という男。素直ないい青年なのかも知れないな」
と思い、早速、本社から、歩いて10分くらいのビルにある講習会に行くことになったのだ。
場所に関しては、森山の方が分かっていた。
「じゃあ、俺が連れていきますね」
ということで、森山が先導する形で、セミナーへと向かった。
正直、何を言っているのか、サッパリ分からない。
「松下君は分かったかい?」
と聞いてみると、
「あのくらいのことは、学校で習いましたからね」
ということであった。
「学校というと?」
と聞くと、
「僕は、コンピュータの専門学校を出ているんです」
というではないか。
当時はまだ、専門学校卒というと、どうしても、四年生の大学生に比べると、
「レベルが落ちる」
と言われていた時代だった。
専門学校というと、まだまだ卒業生も少なく、
「医療関係」
「服飾関係」
さらに、彼のような、
「コンピュータ関係」
であろうか、
いままだったら、保育士だったり、介護だったりというところ、さらには、国際問題や語学の学校も多いのではないだろうか?
時代が今から、二十数年前のことなので、時代もかなり違っているといってもいいだろう。
その日は、コンピュータ基礎を習ったが、まったく分からない。
「こんなものを、今は学校で教えるのか? しかも、これが、基本中の基本だなんて」
と思った。
実際に、松下にきいてみると、
「ええ、あれくらいだったら、高校で教える時代ですよ」
というではないか。
確かに、自分は文系から、法学部だったので、理数系であればあったようなものがなかったのであった。
考えてみれば、その頃は、エクセル、ワードというものも、そこまで普及していなかったので、
「ソフトの使い方」
というのも、さらに、後になってからのことだったであろう。
それから、数日、なるほど、
「システム部の先輩の得意分野」
というものを教えてもらっていた。
ただ、なかなか業務話になると、実際に数年支店にいた森山の方では、何とかついていけたのだが、松下の方は、
「業務経験がゼロ」
のため、
「何を言っているのか、まるで外国語であるかのように思っている」
と感じていたのだ。
確かに、軽く横目を向けると、話を聴いていても、どこか上の空という雰囲気が感じられるように思えたのだった。
それでも、約一か月くらいになると、二人の差は、それほどなくなっていた。
ある程度の業務内容と、自分たちが作ったプログラムによって、いかに業務が回っていくかということも聞いていると、森山としては、
「大いに興味をそそられる」
と感じるものだった。
その頃には、実際に簡単なプログラムを作って、どのようなものができるのかということを実際に検証できるくらいまでになっていた。
「テスト環境」
と呼ばれるものの中で、課題をこなしながら、業務についても、肌で感じていく」
ということになるのだった。
最初は、
「俺は何をやっているんだろう?」
と正直思っていた。
「こんなものが作れるようになったからと言って、何が楽しいのだろう」
とも思った。
「実際に、支店に赴いて、これを作ったのが自分だとでもいって、マウントでも取りたいというのか。そんなことをすれば、それこそ、情けないというものに、なるであろう」
だが、この時、森山が思ったのは、
「意外と、作り上げることって、楽しいじゃないか?」
と思って、自分が作ったものを他人が使ってくれると思っただけでも、ワクワクしてきた。
しかし、その反面、
「これは俺が作ったんだ」
と、
「声を大にしていいたい」
と思っているのだが、それがかなわないともなると、
「自分の中で、むじゅんした気持ちになってくる」
ということが感じられるようになったのだった。
だが、それを松下にいうと、
「いやぁ、システムというのは、縁の下の力持ちということで、自分が目立つものではないですからね。自己満足で、いれば平和でいいんじゃないですか?」
というのだった。
松下という男、ほとんど人とトラブルを起こすこともなく、人から勘違いされる雰囲気でもないので、
「結構人から慕われるのはないか?」
と感じるのだった。
そういう意味では、誰かとトラブルを起こしやすいといえば、森山の方だった。
特に、森山という男は、
「勧善懲悪」
というものを特に自分の中に感じていたのだ。
「会社で仕事をしていると、きれいごとだけで済まされない」
ということが、かなりの確率であったりする。
しかし、その、
「きれいごと」
というのを、自分の中の、
「正義」
として考えているというのだ。
「勧善懲悪」
というと、
「正義を助け、悪をくじく」
という考えがあった。
その頃になってからだろうか、その、
「勧善懲悪」
という考え方に、さらに付け加えることとして、
「創作意欲」
というものが、何となく結びついている木がしてきたのだ。
プログラムというのは、確かに、会社側で、新しい業務の計画が立てられ、さらに、そこから、
「どういうものが必要か? 例えば、入力画面であったり、出力帳票のような運用に必要なもの。または、マスターなどという、それらの運用を行うための、システムとしての必要なものの項目定義などが話し合われ、そこから詳細設計という形になるだろう」
もっとも、その前に、
「大体の工数と人数、それによって、予算が決まってきたりするのだろうが、そこは、自分たちの上司であったり、他部署、つまり、業務を行う場所の、専任が、会議に出席し、
そこで、いろいろと討議されることになるのだ」
というものであった。
さらに、詳細設計から、それぞれのプログラムの、
「仕様書単位」
に落とされ、それが初めて。
「プログラマー」
と言われる自分たちに下りてきて、初めて作ることができるのだ。
もちろん、業務の大まかな設計書も一緒に貰うことが多かったりするので、
「自分のプログラムがどのあたりで動くのか?」
ということを知らないと、納期までに作りこんでから、さらに、単体テストまでは完成させなければいけない。
そして、ここでいう、
「納期というのはあくまでも、仕様書を書いた人に対しての納期であって、そこから先、システムテスト、業務テストなどをへて。初めて、エンドユーザーに渡されるのだ」
ということである。
当然システムテストには自分たちも立ち合うのであって、実際に動かしてみて、結果が違っていれば、
「作り直し」
あるいは、
「改修」
という形になるのだろうが、
「それも、仕様書に対しての、勘違いだった」
ということも、十分にありえるのだった。
実際にシステムテストまで完了すれば、後は本番まで待っていることになるが、基本的には、
「携わった人間は、少なくとも、待機はしていなければいけない」
ということで、実際に本番になってトラブルが発生した時は、キチンと改修できるくらいの業務知識が必要だといっていいだろう。
そういう意味では、営業のトラブルなどと違い、改修するには、
「専門的な知識が必要だ」
ということになるのは当たり前のことである。
そして、一つ気になったこととして、
「自分が作ったはずのプログラムが、会社の財産となってしまうことに、どうしても承服できないところがあった」
もちろん、会社から給料をもらって、仕事としてやっていることだから、
「会社の財産」
となるのは当たり前のことである。
しかし、そんなことは分かっているのだが、承服できない気持ちが、自分の中のどこにあるのか、最初は分からなかった。
最初に気が付いた、
「勧善懲悪」
というものから来ているのだろうか?
「いや、そんなことはない」
と感じた。
となると、考えられることとすれば、
「自分がクリエイター気質なんだ」
ということであった。
「自分が作ったものは、著作権がどこにあろうが、自分のものだ」
という考え方である。
「これは、自分が作ったものだ」
ということを会社に認めさせたいというわけでもない。しかし、もしそういうことだとすれば、
「もっと給料を上げてもらう」
ということになって、
「給料という形で、自分の欲求不満を晴らすしかない」
という考えにいたることになるだろう。
そうなると、それが本当に自分のものだと考えてしまうと、
「何か違う」
ということで、矛盾した考えになっていることを感じるのであった。
そんなことを考えていると、
「自分がサラリーマンであるということは、営業であれば、変な気分になることはないが、プログラマーということになると、この状態では我慢できない自分がいるということになるのだ」
といえるだろう。
実際にプログラムを作るようになると、いくら、
「会社のもの」
ということであっても、
「本当は自分で作ったものだ」
ということで、自己満足くらいはできたのだ。
しかし、それを許してくれないのも、システムという全体的なものからすると、嫌であった。
「プログラムというのは、自分で作ったからといって、自分のものではない」
と思い知らされたのは、
人のプログラムの改修を行った時だった。
他の人は、ほとんどそうなのだと思うが、
「最初の作り方」
というのは、
「他の人が作ったものを持ってきて、修正を加える」
というのが、大体のやり方だった。
さらにそのやり方をしていると、
「他の人が作ったものの特性が分かっているから、人の作ったものの改修が、分かりやすい」
ということである。
つまりは、
「自分が、オリジナルで作っていると、他の人が見た時、分かりにくいし、改修など危なくてできない」
ということになるのだ。
もちろん、
「自分が作ったものは、自分で改修する」
というのであればいいのだが、実際にはそうはいかないだろう。
その人が、
「他の仕事で忙しく、対応ができない」
という場合や、
「別の部署に変わっていて、もうシステムとは関わっていない場合」
さらには、
「会社自体を辞めている」
ということもあるだろう。
そうなると、下手をすれば、
「作った人間がいないから、手が付けられない」
ということもあったりするだろう。
また。システムの中には、同じソフトを使ったプログラムでも、
「バージョンが上がれば、そのままでは動かない」
という場合。
さらには。
「同じプログラムでも、新しいバージョンでは、命令が効かない」
などということも平気であったりする。
そんなことを考えると、
「最近のプログラムは互換性は保たれているが、バージョンの違いでうまくいかないこともある」
というものだ。
それが、OSが変わった場合にも言えたりする。
そうなると、その特性を知っておかなければ、動かなくなってからビックリしても、もう遅いということになるのだ。
もしかすると、まったく違う言語で作りか押さなければならないかも知れない時、少なくとも、そのプログラムがどういう動作で動いていたのかを知らなければいけないだろう。
それを考えると、
「システムというものがどういうものなのか?」
ということを知っておく必要もある。
それでも、
「自分で作った作り方を変えたくないという思いが、森山にはあったのだ」
ということだ。
「創造には独創性がないと、想像でしかない」
という言葉を思い出していた。
そんな会社で、システムの勉強をし、実際にプログラムを作るようになると、
「三度の飯よりも、プログラムを作っている方が嬉しい」
というようになった。
実際に、自分が作ったプログラムが、現場で動いたりなどすると、支店の女の子が、ちやほやしてくれているように思うのだ。
しかも、森山は、
「支店業務を、曲りなりにでも知っているではないか」
森山が本部に呼ばれたのも、宮本部長が、管理部長に相談したことから始まった。
「誰か若手で、現場の業務に精通している人間はいないですかね? でも、さすがに営業として、バリバリにやっている人を引き抜くのは、気が引けるんですよ」
という。
そこで。
「白羽の矢が立った」
というのが、森山だったのだ。
しかも、情報システムには、森山と同期の人間が二人いた。この二人がいてくれたのも、いきなり転属させられた、まったく何も知らない部署では、本当にありがたいといってもいいだろう。
「実際に、最初から、プログラム基礎から、勉強していると、必ず、誰もが引っかかるところがあるという」
しかし、
「それは、いつも、誰もが同じ場所だとは限らない」
あの人は、
「こっち」、
この人は。
「あっち」
ということになるはずである。
そんな時、親身になって、相談に乗ってくれたのも、この二人だった。
おかげで、何とか、引っかかる部分を乗り越えることができて、そこから
「プログラムの習得」
までは、結構早かったといってもいいだろう。
一生懸命に勉強をしているつもりだったが、それでも、さすがに前の二人に追いつくのは結構難しかった。
それでも、何とかなったのは、持ち前の、
「何かを作ることが好きだ」
という思いからだ。
「自分で作ったのがオリジナルだ」
と思うと、
「最初の頃、まったくプログラムというものが何なのか分からなかった頃が懐かしく感じられる」
というくらいだった。
「営業にならなくて、本当によかった」
と感じた。
営業というのは、相手が人間なので、
「どれほど理不尽なことを言われても、聴かなければいけない」
というような話もあった。
今の時代であれば、そんなことがまかり通ってはいけないだろう。
パワハラになってしまうからだ。
それは、相手が得意先の社員であっても、同じことで、社内で、
「取引先の営業の人に無理強いしない」
ということが、コンプライアンスと言われている。
何と言っても、
「営業に対してのバイヤー」
という立ち場を利用して、相手に対して、
「お前のところの商品を買わない」
という無言の圧を掛けることで、優位な立場に誘い込み、理不尽な行動に入り込んでしまう。
「相手だって、自分がされたら、どうなるか?」
ということくらい分かりそうなものなのにな。
と、立場が分かると見えなくなるものがあるのではないだろうか?
そんな会社ではあったが、バブルが弾ける前からあった構想の中に、
「全国展開」
という事業があった。
それは、そのもそ、親会社が、
「元財閥系」
というところで、それぞれの業界ごとに、地元企業を買収することで、バブル時代までは、大きくなってきた。
実は、この財閥グループだけではなく、他の財閥グループも同じようにして大きくなってきたのだ。
「今は、先を行く、他の財閥グループに、追いつけ追い越せという感じで、社内の合併が続けられていた。
そもそも、森山の会社は、
「食品問屋」
という部門であった。
まずは、全国チェーンの前に、東京関係の会社と、九州の会社の合併が行われていた。
ここのグループの、食品問屋と言われる企業の子会社は、7社をもっていた。
ほぼ、それぞれの地域に一つという感じであろうか。
「北海道、東北、関東甲信越、中部北陸、関西。四国中国、そして九州沖縄という地区が、それぞれの地区で、
「地元大手」
ということで君臨していたのだった。
他の財閥関係も同じで、元々は、財閥関係や金融関係だけの企業だったが、今はいろいろな業界に進出するのが当たり前となっていた。
戦前などは、
「財閥が力を持っていた」
そんな連中が、幅を利かせ、軍国主義の日本を支えていたということから、戦後に、財閥解体が行われたのも、無理もないことだった。
しかし、母体自体は生き残り、今の企業の基礎を築いていた。
だから、財閥系の企業は、
「ぼ愛は生き残っていたが、まわりを固める企業がなかった。
しかし、高度成長期を境に、占領軍も次第に撤兵していく中で、地元企業の買収を進め、それぞれの地区の企業を使い、
「財閥系の食品問屋」
という形式で、進めてきたのだ。
だが、やはり、
「全国共通」
という形が理想であることは間違いない。
そこで、合併の話が持ち上がるのは当たり前というものだ。
この合併というもの、実は結構難しい。
社員の問題や、給与問題という総務や人事の問題であったり、営業のやり方の統一化。さらには、一番難しいのは、
「システムの統合」
であり、下手をすれば、運用がまったく変わってしまうということで、得意先や仕入れ先などに、いろいろな手間をかけるに違いなかった。
それも分かっていることであり、一つの地域の合併というのだけでも、数年はかかるだろう。
そうなると、一気に全国を統一する。
などということは、不可能に違いない。
なぜなら、
「それだけの対応を行う絶対人数がいない」
ということである。
「時間差で同時に」
ということは、2,3社だったら無理でもないかも知れない。
しかし、
「本番を同じ時期に」
というのは、実質的に不可能であった。
「最悪なことばかり口にして、ネガティブになるということは、あまりいい傾向ではないだろう」
といえるのだろうが、実質的にはそうもいかない。
そういう意味で、システムの人間は、
「絶えず最悪のことを考える必要がある」
ということであった。
「もし、入れ替えに失敗したら?」
ということになると、入れ替え前の状態に戻し、滞りなく、業務を翌日からもおこなっていく必要があるということだ。
「そう、システムの人間は、絶えず最悪の事態を想像して動かなないといけない」
ということは、
「何かがあり、システム移行ができなくなった場合、何時であれば、システムを復旧し、元の状態で、業務ができるかということを逆算し、ある時点で、移行を断念し、そこからは、移行以前の状態に戻すことに全力を尽くす」
ということになるのだ。
もちろん、
「元の状態に戻してからの動作確認も必要なので、そこまで計算に入れてのことである」
ということになるのだ。
実際に元のままに戻すことで、
「また、他の日に行わなければいけない」
ということで、2度手間3度手間ということになり、神経をすり減らすというものであった。
もちろん、最初にしなければいけないのは、
「どうしてうまく行かなかったのか?」
ということの原因究明であり、この作業にどれだけ掛かるかというのが、難しいところであった。
実際に調査にどれくらいの時間が掛かるのか? それが分かるくらいであれば、ひょっとすると、あの場で解消できたのかも知れないが、あくまでも、運用重視、システムの検証に、顧客を引っ張り込むわけにはいかないのだった。
さて、だが、その時の、九州と東京の企業の合併はうまくいった。
システム移行にも問題はなく、比較的、スムーズに行った。
ただ、各部署内で、あるいは、各部署間での
「意思の疎通」
は、難しかったのだった。
元々それぞれの会社のやり方に誇りを持っている社員が多いということで、
「どっちかのシステムに変えてしまう」
というよりも、お互いに歩み寄る形での方がいいかも知れない。
という意見の元に、そういうやり方を行うことで、
「不公平もないだろう」
ということであったが、その理屈を分かっているのは、システムと、一部の住宅連中くらいであった。
だから、どちらの会社も、
「相手の会社に、こっちが合わせてやっている」
というような不満を抱いていた。
特に東京の本部では、
「立場的にはこっちが上なのに、何で、向こうに合さなければいけないんだ?」
としか思っていない。
それこそ、
「上下関係のなせるわざ」
といってもいいだろう。
逆に、九州の会社とすれば、
「仕方がないこととはいえ、自分たちのシステム、実に画期的で、社員もやっとついてこれるところまで来ている」
と自負するときにもいた。
ということであった。
「これが会社というものの難しいところか?」
と考え、
「いくら、素晴らしいシステムだった」
と思っていても、
「結局、会社の力関係には、従うしかないのか?」
と思いながらも、
「システムはこっちに合わせてほしかった」
と思うのだ。
実際に運用してみると、
「十年くらいまで、うちでやっていたシステムじゃないか?」
ということで、
「愕然とする」
あるいは、
「驚嘆してしまう」
ということが実際にあったりするのだった。
この運用に関しての説明は、営業から選抜された人が説明にいくということになっている。
この話は、今に始まったことではなく、移行が始まった頃から、
「業務にどう説明すればいいか?」
という、
「インストラクタ―チーム」
というものを形成していた。
それは、システム統合作業の中で行われ、その一ステム部員からも、失敗であったり、苦労した部分を聞くことで、
「それが運用にいかに関わってくるのか?」
ということを考えての、インストラクター講座ということになった。
しかし、実際にやってもみると、今までの運用に比べ、
「時代の逆行もある」
ということで、かなりの説明を困難に巻き込まれるということがあるに違いない。
そんな期間を数か月過ごす形で、結局は、
「システム移行」
というものを行ってから、滞りなく業務が進行するまでに、約1年弱くらいを要することになった。
「会社側の完全移行までの見積もりは、システム移行から、約数か月」
ということだったので、実際に終わってみると、移行へのプロジェクト発足から、
「2年近く遅れた」
ということになるだろう。
つまりは、
「5か年計画というものの柱であったが、その期間を飛び越してしまい、当初の成果をす数年越しになってしまったということだった」
それを考えると、
「他のグループ会社の統一というのも、もう少しやり方を見直さないと」
という意見も出てきて、
「最初から、慎重に行うべきだ」
という意見も出てきた。
そこで、
「移行が成功し、何とか軌道にシステムを載せることができた子会社のシステム日から、新たな移行プロジェクトというものの、専任として、引き抜く」
ということになった。
「やっと移行も終わってやれやれだ」
と思っていた。
さらには、
「もう、こんなシステム移行など、まっぴらごめんだ」
と皆が思っていたところに、この無慈悲な異動命令。
「さすがに溜まらないわ」
ということで、
「こんなのまたやらされるんだったら、会社を辞める」
という人も結構いるので、
「じゃあ、俺も」
ということで、森山も心機一転で辞めることにしたのだ。
ちょうど、この会社に10年ちょっといたことになるのだが、最後は、
「もういやだ」
という気持ちと一緒に、
「他の会社を見るのもいいな」
と思うようになっていた。
そして、
「大企業になりそうなところはまっぴらごめんだ」
ということを考えるようになったのだった。
そして、いよいよ、会社を辞めて、転職することになったのだ
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