怠惰で臆病なワルツ

十度 零

怠惰で臆病なワルツ

 その日、私は非常に怠惰を感じていた。私の手元に回覧板が渡ってきたのである。「なんだ、それだけのことか。」と、きっと読者の方はお思いであろう。自分の名が記してあるところのチェック欄に丸を書き、隣の家の人にそれを渡す。確かに、「それだけのこと」である。しかし、私にはそれが非常に億劫に感じられ、嫌味な言い方をすれば、「月に一回送られてくる厄介な置き手紙」とでも言いたいところなのである。なぜというに、私は生来、他人の目を気にする臆病な性分であるから、わざわざその行為のためだけに、ある程度身なりを整えてから外に出ることを迫られるからである。加えて、その日は休日であったため、私は寝巻きでいつものようにお昼時を過ごしていたのだ。─私は特に外出の予定がない時は、家の中を寝巻きで過ごす主義なのである─全く、なんという気苦労だろう!もしかしたら、私のように感じている読者も僅かにはいるのかもしれない。

 私は呆然と手元にある回覧板を眺めていた。

 「ゴミの回収日は火曜日・金曜日」

 「〜町内会だより〜〇〇の行事が開催されました!」

 くだらない。大して変わり映えもしないこんな瑣末な情報を回すためだけに、私がわざわざ労しないといけないのかと思うと、私は途端に憤怒の情に襲われた。こんな慣習はいつから始まったのか、こういう実質を伴わない空虚な伝統を孫のように大事にしているから日本はだんだんと衰退してしまっているのではないか、日本という国は─と、私の怠惰を正当化するために雑破な日本批判論まで展開する始末なのである。─無論、私は海外で回覧板というものが存在しているのかどうかすら全く知らないのであるが─こうでもしないと私の腹の虫がおさまらないのであった。

 そして、私はインターネットという広大無辺な世界を歩き回り、「回覧板はいらないと思います。」「回覧板ってなんのためにあるんですか?」など、回覧板の存在に疑問を呈している投稿に胸を撫で下ろして、私がただ怠惰なだけではないと言い聞かせ、あるいは、回覧板の必要性を説く投稿を一笑に付すような態度で眺めるのに時間を費やしていた。それからあろうことか、全く関係のない話題にまで目を移し、ああでもないこうでもないと空無な論理に耽るというわけである。こんなことをしている間にさっさと済ませれば、それで後は気楽に過ごせるというのに。

 無為な時間を過ごした後、私は手に持っていたスマートフォンを机に置いて、窓の外の庭を眺めた。夕暮れにさらされた雑草が無造作に生い茂っている。そのすぐ横の隣家の庭園には、色鮮やかな花々─牡丹やチューリップ、それから名前もよく分からない様々な綺麗な花─がこちらに目を向け、嫌味な小言を言ってくる。それがまた私を窮屈なまでに追い詰める。だが、私の限界まで推し進められた怠惰な情が、臆病な私に庭の手入れを行うことを拒否させるのだ。それなら、身なりなどもどうでもよかろうと思われるだろうが、真に徹底した怠惰というのは、強靭で逞しい精神力が必要なのである。そのような精神力など欠片も備えていない臆病な私は中途半端な怠惰に留まらざるをえないというのだ。そのため、手軽にできる身なりだけは整える、というわけである。そもそも私がそんな精神力を持っていたとしたら、町内会なぞすぐにでも辞めてしまうこともできただろう。

 ──もう夜になってしまう。そう思うと、私はやっとのことで重たい腰を上げ、着替えをして、四方八方に散らかった髪も整えて、慌てて外に出た。たった数メートルである。私は空き巣のようにそろりそろりと音を立てないように、足早に隣家の玄関まで行き、回覧板の紐をドアノブにそっと掛けた。これだけのことである。無駄な休日を過ごしてしまった。後悔の念を携えて我が家へ帰ろうと足を伸ばしたとき、向こうから何やら駆けてくる人が見えた。おてんばな女の子、あるいは清楚な女性だったか、─今となってはそんなことはもうどうでも良かろう!─紙の束を脇に抱えていた。私の家のポストに紙を一枚めくって投函していた。どうやらチラシ配りをしているようである。忙しそうな顔をして彼女は小走りでこちらに向かってきていた。私はそんな彼女を避けるために早めに左にそれた。─それは傲慢なやつだと思われないため、面倒なトラブルを回避するために、日頃から無意識にしている習慣であった─すると、彼女も左の方によけるではないか。私はすぐさま右に、するとまた彼女も右に。そしてまた左に。一歩、二歩、三歩と……


 僅かに、なんとも形状し難い「時」が流れた。シュトラウスの雄大で優しい音色が流れている。─それはいささか大仰であろうか─それから彼女は私の方を一点に見つめ、思いっきり相好を崩した。私もそれと同時に同じように………………

 

 

 

 

 

 これが、怠惰で臆病な私が生涯で一度だけ経験したワルツである。

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怠惰で臆病なワルツ 十度 零 @renan08

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