5.修学旅行1日目・夜
奈良での宿泊地は猿沢池近くの旅館だった。夕食が終わった班から順次男女別の大浴場に入ることになり、順番が回ってきたケンタたちの班もどやどやと賑やかに風呂場に向かった。
「おまえ、まだ生えてねえのかよ、ガキだなぁ」
昼間の柱くぐりの件の照れ隠しもあるのか、元気を取り戻したヤスシがケンタの股間を見るなり茶化してきた。慌ててタオルで前を隠したが、時すでに遅くみんなの視線がケンタの下半身に注がれていた。ヤスシのほうは、太った腹や尻にはアザもかすり傷もないようだ。恐らくパニックから必要以上に体に力が入ってしまい、自分で自分を柱から抜け出せないような状態にしてしまっていただけだったのだろう。
ちらっとダイゴのほうを見ると、体つきも男性のシンボルももうすっかり大人の男性のそれである。僕もいつかあんなふうになるのかな。ケンタは小学生のような貧弱な裸を自分で抱き締めて、寒くもないのにぶるっと体を震わせた。
「こいつ、嫌らしい目でダイゴを見てるぞ」
タツヤの一言で、またみんながホモとかオカマとかキモイとか一斉に言い出した。
「俺、そっちの趣味はないからな。ケンタに背中流させるのはやめとくわ」
とダイゴが言って、ざぶんと音を立てて広い湯船に足から飛び込んだ。それを合図にヨウヘイたち四人も続いて湯船に入る。ケンタもさっとお湯をかぶってから恐る恐る湯船に足を入れた。
先に入っていた別の班の男子が風呂から上がり脱衣場のほうに行くのを見届けると、
「気持ち悪い目で見るんじゃねえよ」
と言いながらダイゴがお湯をすくってバシャッとケンタに浴びせかけた。ヨウヘイやタツヤも追随する。コウジはお湯をすくいはするもののケンタには直接かけず、かけているふりをしながらすくったところに再びお湯を叩きつけて、しぶきが上がるようにしていた。ヤスシはダイゴに倣って一度はケンタにお湯をかけたが、コウジの行動に気がつくと、少しためらった後に真似をしてお湯をかけているふりをし始めた。
5人のうち2人からの攻撃は食らわなかったが、3人が湯しぶきを浴びせてくるので、ケンタの顔はびっしょり濡れて目を開けていられなくなり、湯船の中でアップアップした。「もうやめてよ」
と呟いたのと同時に一筋の空気の流れが感じられ、ガラッと風呂場の扉が開けられて、中年太りのだらしない体を隠そうともせずに副担任のヤマダ先生が入ってきた。
「おまえら、おとなしく入ってろよ」
と言って洗い場で体を洗い始めたが、湯船の中はシュンと一瞬で静まった。
「もう出ようぜ」
ダイゴがバツが悪そうに促して、みんなはそそくさと湯船から出てぞろぞろと脱衣場に移動した。扉を閉める時にケンタが振り返ると、誰も入っていない浴槽の真ん中で守護神が気持ちよさそうに羽を広げて湯に浸かっていた。
ケンタはふだんベッドで寝ているから、畳の部屋に布団を敷いて寝るのは家族旅行で旅館に泊まった時か、田舎のおばあちゃんの家に行った時ぐらいだった。風呂場での一件で何となくシラケムードで部屋に引き揚げた6人だったが、パジャマ代わりのジャージに着替え、自分たちで押入から布団を出して敷き始めると再びテンションが上がってきた。自分たちでといっても、布団を敷いていたのは主にケンタとコウジだったが。
部屋の床の間に近い位置に敷かれた布団にダイゴがどっかりと腰を下ろしたタイミングでヤスシが、
「枕投げしようよ。じいちゃんも修学旅行でやったって言ってたよ」
とダイゴにお伺いを立てた。ヤスシの家はおじいさんが町工場を経営していて、お父さんもお母さんも一番上のお兄さんも一緒に働いている。孫が修学旅行に行くと聞いて、一杯機嫌のじいちゃんが自分の修学旅行の武勇伝を語って聞かせたのだとヤスシは言った。
「そんな子供っぽいことできっかよ!」
とダイゴが言うので、やらないのかとケンタがほっとしたのも束の間、いきなり枕が入口横の布団の上にいたケンタの顔面に飛んできた。のけぞって布団に背中から倒れ込むケンタ。どっと歓声が上がる。それを契機にヤスシも起き上がりかけたケンタに向って枕を投げたので、ケンタは再び後ろに倒れてしまった。さらに場が湧く。ヨウヘイはケンタに向って投げるふりのフェイントをかけ、急に角度をずらして、倒れたケンタのほうを見ていたコウジの後頭部に枕を命中させた。コウジが前に突っ伏す。頭を押さえて起き上がったコウジとケンタの両方に当たる絶妙な角度でタツヤも枕を投げてきたので、2人はまたしても布団に倒れ込んだ。6つの枕すべてがケンタとコウジのもとへ行ってしまったので、
「一方通行じゃつまんねえだろ。おまえらも投げ返してこいよ」
とダイゴが柔道の後輩に胸をかす先輩のように度量の深いところを見せてきた。投げ返せば倍返し3倍返しになって返ってくるんじゃないかと、ケンタとコウジは顔を見合わせたが、コウジが意を決したように枕を一つつかむと、ダイゴめがけてバレーボールのトスのように投げ返した。枕はダイゴにナイスキャッチされて、すぐにヤスシのほうに全力で投げたので、枕が当たったヤスシも大げさにひっくり返った。
ケンタも恐る恐る枕を持ってダイゴのほうに思いっきり投げたが、届かずにダイゴの目の前にどさりと落ちた。
「下手くそだな。おまえら見本見せてやれよ。俺に投げてこい!」
とダイゴに言われて、ヨウヘイとタツヤはケンタとコウジに枕を渡せと要求してきたので、2人はそれぞれに枕をパスした。ヨウヘイとタツヤがダイゴに向かって時間差で投げる。力を加減しているわけでもないのに、頑健なダイゴは枕が当たってもびくともせずに、余裕の笑みを見せると枕が手元にないやつを狙っては投げ返した。
そこからは部屋中を枕が飛び交い収拾がつかない状態になった。ぴゅんぴゅんと空を切って枕が飛ぶ。ケンタとコウジも、投げ返さなくても何か言われるのだったら投げたほうが得とばかりに攻撃されたらやり返していた。風呂で温まっていた体が汗をかくほど盛り上がってきた頃に、
「おまえら全然力が弱いな。こうやるんだよ。ちゃんと見てろよ!」
とダイゴが叫んでタツヤの顔面に思いきり枕をぶつけた。タツヤは一瞬体が浮くほどの衝撃を受けて派手に後ろへ倒れ込んだ。誰もがケンタに当てるのだろうと思っていたので、的が違っていたのは予想外だったが、それでかえって盛り上がり、他のメンバーもさらに力をこめて枕をぶつけ合い始めた。
最初に異変に気づいたのはケンタだった。10分ほど投げ合いを繰り返して、そろそろケンタの疲労もマックスに近づいてきた頃、タツヤが参加していないことに気づいたのだ。みんな乱れ飛ぶ枕の軌跡ばかりを目で追っていたので、タツヤのほうを見ている者は誰もいなかった。先生たちに気づかれないように、襖と廊下側の扉はきっちり閉めたはずなのに、すうーっとすき間風が入ってきた気がして枕から視線を外すと、最初にダイゴに枕を投げつけられて倒れた時と同じ姿勢のままでタツヤが布団に仰向けになっていた。
「タツヤ君! どうしたの?」
注意力がそれたケンタに枕が集中したが、ケンタは投げつけられた枕をとろうとも避けようともせずに、タツヤのもとににじり寄った。四人も異常な空気を察知し、枕投げの手を止めてタツヤとケンタのほうを見た。あたりが静かになると、仰向けのタツヤからぜえぜえと苦しそうな息遣いが聞こえてきた。
「喘息発作だ!」
ケンタが叫んだ。小学校の時のクラスメートに喘息持ちの子がいて、発作が起きた場面に何度か居合わせたことがあったので、とっさに何が起こったのかを悟ったのだ。
「タツヤ君、喘息の持病があって薬飲んでたよ」
そばに寄ってきたコウジも声を上げた。
それを聞くとケンタはすぐに立ち上がって、みんなの荷物を入れてある押入の中からタツヤのリュックを取り出し、ごそごそと中身を漁って透明のビニールポーチを引っ張り出してタツヤのもとへ駆け戻った。ポーチのチャックをあけて吸入剤を取り出す。
「タツヤ君、ほら吸入剤だよ」
その声を聞いてタツヤは薄目を開けてケンタを見た。
「自分でできる?」
タツヤはかすかにうなずくと、ケンタから吸入薬を受け取って口元にあてがった。しかし、寝転んだままでは手に力が入らず、うまく薬剤を噴射できないようだったので、ケンタはコウジの手をかりて静かに背中を起こして支えてやった。タツヤは再度口元に吸入口を当てるとカチッと音がするまでボタンを押し込んで薬剤をゆっくり吸い込んだ。少しの間息を止めて静かに鼻から吐き出す。続けてもう一回薬剤を吸入して息止めをした後鼻から吐き出す動作を繰り返した。さっきまで白くなっていた唇に赤味が戻ってきた。そして、ふうーっと一つ大きく息をついた。それと共にこちらを向いたタツヤの唇がありがとうと動いたようにケンタには見えた。
「タツヤ、大丈夫か?」
あっけに取られて成り行きを見守っていた3人の中でヨウヘイが一番先に我に返ったらしく、タツヤに声をかけた。
「うん、もう大丈夫、だと思う。20分ぐらい安静にしていれば平気だから」
タツヤが答えると、
「ああ、びっくりしたー。タツヤ、死んじゃったかと思ったよー」
とお調子者のヤスシが大声を出したので、部屋の中はよかった、よかったと大合唱になった。そこへガラッと襖を開けて、ヤマダ先生がぬっと顔を出した。
「またおまえらか! 何、騒いでるんだ。もう寝る時間だぞ」
「何でもありません。すぐ寝ます」
と口々に言って取り繕おうとしたが、目ざといヤマダ先生はタツヤが手に持っていた吸入剤に気づいてしまった。
「おまえ、喘息発作が起きたのか? 救急車を呼ぶから待ってろ」
と言い出したので、タツヤが慌てて、たまにあるので慣れているから病院に行かなくてももう大丈夫ですと訴えた。周りのみんなも大ごとにされては困ると思い、必死で説得してヤマダ先生に救急車を呼ぶのを思いとどまらせた。
しかし、その後すぐに担任のノリコ先生が呼ばれ、協議の結果、タツヤの自宅に連絡が行き、タツヤは翌朝迎えに来る母親と一緒に自宅に帰ることになった。そして、迎えが来るまでの間はヤマダ先生の監督下に置かれ、また発作が起きては困るということで、今夜は男性教師の部屋で休ませることが決まったのだった。
「喘息があるなら、前もって言えばよかったんだよ。何も言わないんだもんな。あいつが悪いんだよ。自業自得ってやつだ」
妙に静かになった部屋の中でダイゴがボヤく。発作が起きたのは、旅行が楽しくて興奮して1人で布団の上ではしゃいでいたせいだとタツヤが先生たちに説明したので、ダイゴたちも連帯責任の強制帰宅は免れた。みんなぐったりと疲れ果て、ダイゴのボヤキにつき合う者は誰もいなかった。
部屋の真ん中あたりに敷かれたタツヤの布団はそのまま敷きっ放しにして、しんと静まり返った空気の中でそれぞれ布団に潜り込んだ。最後に壁の電灯スイッチに一番近いケンタが電気を消そうとしてタツヤの布団を見ると、守護神が窮屈そうに大きな体を布団の中で丸めていた。
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