4.修学旅行1日目・昼

 新横浜駅から乗ったのぞみ号の車内で、向かい合わせにした片方の3人掛け座席の一番通路側の席で、ケンタは鉛を飲み込んだような心境で縮こまっていた。グループ6人分のお茶のペットボトルを1人で持たされて、やっとみんなに配り終えたところだった。出発前に学校から支給された飲料はお茶だけだったので、コーラじゃないのかよとぶつぶつ文句を言っていたが、喉が渇いていたらしく結局みんなキャップを開けて飲み始めた。これからの3日間、日中の行動はもちろんのこと、夜の旅館の部屋も一緒なのだ。使いっぱとして利用されるぐらいは我慢できるが、一緒の部屋で寝るなんて想像しただけで体が震えてくる。



 朝、校庭での集合時間よりかなり早めに着くように家を出たケンタは、日課の拭き掃除をしながら、これからの修学旅行に対する不安と不満をぶつぶつと「守護神」に呟いていた。転生したら普通は異世界でいろんな冒険を繰り広げるものじゃないの? 転生シンゴみたいにイケメンヒーローに転生できれば最高だったけど、だめならせめてスライムに転生したかったな。ずっとスライムのままだったら嫌だけど。RPGやファンタジーの世界が無理だったら、犬とか猫とかのかわいいペットでもよかった。飼い主に溺愛されて幸せに暮らすんだ。

「虫のいいことばかり言うなよ」

 先生かと思ってあたりをキョロキョロと見回したが誰もいない。気のせいかと再び銅像に向き直ると、今度は頭の上のほうから声が降ってきた。

「修学旅行、楽しそうだな。私も一緒に行くかな」

 見上げると、いつの間に像から抜け出したのか、像の大きさの30倍はありそうな1本角の鳥が宙に浮かんでいた。守護神に会うのはあれ以来1週間ぶりだったので、ケンタは腰を抜かしそうになった。

「いいかげん慣れろよ」

「もうすぐみんな登校してくるし、その前に先生たちも来ちゃうから早く像に戻ってよ。修学旅行についてくるなんて絶対あり得ないし」

 ケンタがオロオロしながら言うと、

「大丈夫だ。君以外には私の姿は見えないから」

 守護神は笑いながら胸を張った。

 そういうシステムになっているの? だけど、見えない守護神と話なんかしているところを誰かに見られたら、それこそ頭がおかしいと思われちゃうんじゃないか。学校を離れても守護神がついてきてくれるのは心強いけれど、ダイゴたちに変なやつと思われてますますイジメられても困る。ありがたい申し出だがここは断ったほうがいいだろうと、ケンタが口を開きかけた時、

「あら、もう来てたの? 随分早いわね。旅行が楽しみ過ぎて興奮して眠れなかった?」

 担任のノリコ先生のノーテンキな声が背後から聞こえてきた。ノリコ先生は新卒3年目で明るくて優しいし、まあまあ美人なほうだからクラスのみんなにも人気があったけれど、細かいことに気づく性格ではないようで、ダイゴたちとケンタの関係も、いつも一緒にいるのだから仲がいい友達同士だと頭から信じていた。グループ分けが決まった後も、全員一緒でよかったねなどと悪意のかけらもない表情で言ってきたぐらいだったから、もしかしたら先生が厚意でダイゴたちと一緒のグループにしたのではないかとさえケンタは疑っていた。本当にそうならばそれこそ余計なお世話だし、悪気がない分さらに始末が悪い。


 他人には見えないという守護神の言葉があったにもかかわらず、守護神をノリコ先生に見られまいとして、ケンタはあたふたと不自然な動きで腕を振り回しながら守護神の前に立ちふさがってその姿を隠そうとした。

「何、準備体操? 今日は運動会じゃないわよ。そろそろクラスごとに並び始めるから校庭に行っててね。C組は真ん中辺よ」

 涼やかな声音でケンタに告げるとノリコ先生は一旦、職員室のほうに歩み去っていった。新横浜駅まで生徒たちを乗せる数台の観光バスも、いつの間にか校庭脇の駐車場に並んで停まっている。ノリコ先生が校舎の中に消えると同時に振り返ると、守護神が浮かんでいた空間にはもう何もなかった。

 あれ? 銅像に戻っちゃったのかな。安堵する気持ちと残念な気持ちが同時にこみ上げた。旅行に行ったら向こう3日間は守護神とも会えなくなるのだ。ほかの人に姿が見えないなら、やっぱりついてきてもらってもよかったかな、そうしたら少しは気持ちも軽くなったかもしれないと、守護神の同行を快く承諾しなかったことをちょっぴり後悔した。



「ケンタ、ポテチも出せよ。朝預けただろ。ダイゴが好きなハバネロ味のやつだよ」

 いつもダイゴのご機嫌とりに余念がないヤスシが、早くよこせというように向かいの真ん中の席から手を突き出している。隣の窓側のヨウヘイは眠いのか、不機嫌そうな顔をして細い目をさらに細めていた。ヨウヘイの向かい側にはダイゴが座っている。京都に向かう場合、3人掛けの座席は進行方向に向かって左側なので富士山は見えないが、海が見える区間ではしっかり太平洋を望むことができるので、当然の成り行きで景色のいい窓際の席はダイゴとヨウヘイの2人が占めていた。ダイゴの隣がタツヤ、ヨウヘイの隣がヤスシ、そして通路側、ケンタのトイメンがコウジだった。

 ヤスシに言われて、ケンタは吊り棚から自分のリュックをとろうと慌てて立ち上がったが、吊り棚の位置が高く、背の低いケンタにはなかなか手が届かない。通学用より一回り大きいリュックのショルダーストラップにやっと指がかかり思いきり下へと引っ張った。しかし、勢い余ってリュックは通路にドサッと音を立てて落下してしまった。

「おまえってほんとドジな」

 妙に上品な手つきでペットボトルのお茶を飲んでいたタツヤが、ほとほとあきれたように言って、隣のダイゴに同意を求めた。ダイゴはさして興味なさそうに曖昧に頷いたが、

「腹減ったから早く出せよ」

 と催促してきた。校舎裏や屋上でもたもたしているといつもなら誰かのビンタが飛んでくるところだが、新幹線の中には先生たちもいて時々通路を回ってくることもあるので、さすがに手を出してくる者はいなかった。修学旅行なんかくだらないとうそぶいていたくせに、本当はみんな楽しみにしていて、表立って問題行動を起こすと強制帰宅になりかねなかったので、そこは自重していたのだ。最初のうちはただただ怖いと思っていたダイゴたちだったけれど、停学覚悟で事を起こすほどの度胸はないことはケンタも薄々感じ始めていた。ケンタのように気弱な子の上に立って威張りたいだけなのだ。それで自分の存在価値を確かめているのだろう。そんなことはわかってはいても、ケンタにはそれに抗う勇気はなかった。


 手間取りながらもやっとのことでリュックからポテトチップスの袋を取り出してみると、袋は落下の衝撃ですでに封が少し開いた状態になっていた。

「かせよ!」

 ヤスシが袋を取り上げ、

「何だよ、もう空気が抜けてるじゃないかよ」

 とぶつぶつ言いながら食べやすいように袋の口を大きく開けて、ダイゴの前に差し出した。ぷんと鼻をつく刺激的なハバネロの匂いがあたりに広がったが、当のポテトチップスは形が崩れて原型をとどめていないものがほとんどになっていた。

「何だこれ? こんなの食えるかよ!」

 ドスの利いたダイゴの声がケンタの鼓膜に突き刺さる。周りを気にして抑えてはいるものの、イライラが1人置いたケンタの席まで伝わってきた。

「ケンタ、おまえ、こんなのをダイゴに食べさせるつもりなのか」

 異常に気づいたヤスシも一緒になって責めてきた。

「ごめん、僕……、わざとじゃないよ。落とした時に割れちゃったみたい」

 萎縮したケンタは座席でさらに縮こまった。


 その時、隣の客車との間のドアが開いたわけでもないのに、空気が少し動いたような気がした。気づくとケンタより少しだけ背の高いコウジが背伸びして自分のリュックを棚から下ろしているところだった。コウジはリュックからハバネロ味のポテトチップスの袋を取り出すと、

「ダイゴ、僕の食べて」

 と袋を開いてダイゴの膝の上に置いた。砕けたほうのポテトチップスは、ヤスシから回収してコンビニ袋の中に入れて自分のリュックにしまい、何事もなかったかのように席に座り直した。ケンタはただ黙ってその様子を見ていたが、心の中でコウジに何度もありがとうとお礼を言った。ダイゴのほうを見ると、ちょっと拍子抜けしたような顔をしていたが、本当にお腹が空いていたのか、黙って辛いハバネロポテトチップスをむしゃむしゃと頬張り出した。ヨウヘイも眠そうだった細い目を少しだけ見開いてその様子を見ている。ヤスシとタツヤは一瞬目を見合わせた後、おまえらも食べろとダイゴのお許しが出たので、これでビールがあったら最高だなぁとか口々に言いながら、回されてきたポテトチップスの袋に手を突っ込んで食べ始めた。

 その時、窓の外に大きな影がよぎったような気がしてケンタが外を見ると、新幹線と並ぶ格好で守護神が悠々と海の上を飛んでいた。やっぱり来てくれたんだ! ケンタは少しだけ心が軽くなった気がした。



 名古屋を過ぎたあたりでトイレに立ち、小便を済ませてトイレのドアから出ると、目の前にコウジの姿があった。ケンタはドキドキしながらも、ちゃんとお礼は言おうと思い、コウジの目を見ながら、

「さっきはどうもありがとう。ポテチの袋潰しちゃった時は終わったかと思った。助かったよ。本当にありがとう」

 と丁寧に礼を述べた。コウジは一瞬どうしようか迷っているふうだったが、周りを見回して他の連中がいないことを確認すると、

「去年まではね、僕がやられてたんだ」

 とカミングアウトした。ケンタがびっくりして後ろにのけぞると、それをきっかけにうつむきながらポツリポツリとしゃべり出した。

「僕もあんまり体が大きくないだろ。ダイゴたちみたいに運動も得意じゃないし。だからターゲットにされてたんだ。2年生になってクラス替えがあったのにまたあいつらと一緒だったとわかった時は絶望したよ。また1年我慢するのかって。だけど、ケンタが僕より小柄でおとなしかったから目をつけられて、ターゲットが僕からケンタに移ったんだ。一番下だったのが下から2番目に上がれた。僕はそれだけでラッキーだと思ったんだ。僕も1年間我慢したんだから、ケンタも我慢すればいいと思ってた」

 コウジは言いにくそうに告げると、顔を上げケンタの目をまともに見据えて続けた。

「でも、それじゃあいけなかったんだ。自分が助かるためならほかの人を犠牲にしてもいいなんて、やっぱり間違ってるよね」

 ケンタはコウジの告白に心底驚いた。今まではみんな自分の意思でダイゴに従っているのだと信じていたからだ。だから、コウジだってみんなと同じようにケンタをイジメて楽しんでいるのだろうと思っていた。

 みんなに同調しないとまた自分がイジメられるんじゃないかと怖かったんだ、とコウジは苦しい胸の内を吐露してくれた。そして、ごめんねと謝った。ケンタはコウジの勇気に心が揺さぶられる思いがした。自分がまたイジメられるようになるかもしれないのに、さりげなくケンタのことを助けてくれたのだ。もしかしたら、ほかのみんなも実はダイゴに嫌々従っているのかもしれない。その思いつきをコウジに打ち明けようとした時、隣の車両の自動ドアが開いてヤスシが入ってきた。

「ケンタ、いつまでクソしてんだよ! ダイゴが呼んでるぞ」

 声と一緒に、ヤスシが手に持っていたお茶の空ボトルがケンタの頭に飛んできた。

「すぐ戻ります!」

 慌ててケンタはヤスシが入ってきた車両のほうに戻りかけた。

「それ捨てとけよ。おれもしょんべん」

 空いていたトイレにヤスシの姿が消えると、

「早く戻ったほうがいいよ。ボトルは捨てておくから」

 とコウジが小声で囁いた。そして、ぎこちない笑みを浮かべながらつけ加えた。

「あまり一緒にいるところを見られないほうがいいよね。また、キツイこと言ったりすることもあると思うけど、許してね」

「うん、大丈夫」

 コウジの辛い立場を理解したケンタも、不器用な笑みを返すと自分の座席に戻っていった。



 修学旅行の一行は京都から近鉄に乗りかえ近鉄奈良駅で降りると、クラスごとに担任の先生に先導されてぞろぞろと東大寺方面に歩いて向かった。奈良公園の緑が見えてくると、そこここにのんびり草を食んだり草むらに座ったりする鹿の姿が見えてきた。観光客慣れしているので、鹿せんべいやコンビニ袋に入った食べ物を狙って近寄ってくる鹿もいた。そんな鹿たちをクラスの女の子たちがキャー、カワイイと歓声を上げながらスマホで写真を撮ろうとするのを、最後尾にいた副担任のヤマダ先生が一々注意して、立ち止まらずに列に戻るように促していた。

 ヤマダ先生はもう定年を過ぎているのだが、若手の担任のサポートのために再任用で副担任になっているらしい。ノリコ先生は細かいことはうるさく言わないが、ヤマダ先生は陰で「小言ジジイ」と呼ばれているだけあって、すぐ説教をしてくるのでみんなに煙たがられていた。ふだん学校に出勤してくるのは週に3日だけなのだが、修学旅行にはついてくるとわかった時はクラス中がため息をついた。


 東大寺参拝の前に、一行は昼食をとるために飲食店や土産物店が建ち並ぶ一角にある食堂に入り、班ごとにそれぞれテーブルについた。修学旅行生ご用達の店らしく、店の2階は団体客用のだだっ広い空間が広がっていたが、ワイワイガヤガヤと賑やかな生徒たちで席はすぐに埋め尽くされた。人数が多いのでメニューはうどんか親子丼かカレーライスを事前に選び、「うどん」とか「カレーライス」と書かれた食券を各自テーブルの上に置いたところに、お店の人が次から次へと料理を運んできた。1日目の夕飯と2日目の朝夕、3日目の朝食は宿でとることになっており、2日目と3日目の昼食は自由行動中に各班で自由に食べることになっていたので、全クラスが一堂に会して昼食をとるのは今だけだった。

 ケンタとコウジはこま切れの豚肉とたっぷりのキノコが入ったうどんを頼んでいたが、他の4人はみんなご飯物で、ダイゴとタツヤとヤスシが大盛りのカレーライス、ヨウヘイはやはり大盛りの親子丼だった。

「それ、うまそうだな」

 新幹線の中では眠そうにしていたヨウヘイが、ご飯を食べて元気が出たのか、自分の親子丼を一気にかき込んで食べ終えるとケンタのうどんに箸を伸ばしてきた。

「お、結構うまいな。まだ残ってるからダイゴも食べるか?」

 人の昼ご飯なのに、自分のものであるかのようにダイゴに勧める。ダイゴは丼の中を一瞥して、

「俺、キノコ嫌いだから要らねえわ」

 と気持ち悪いものでも見るような顔をして断った。

「じゃあ、俺食べちまうぜ」

 まだ、食べてる途中だったのにと言う隙も与えず、ヨウヘイはあっという間に残りのうどんを平らげてしまった。

「何だよ、ケンタ。残さず食べてやったのに文句あるのかよ」

 とヨウヘイに凄まれて、とても嫌々ケンタに意地悪をしているとは思えないその様子に、みんなダイゴに従っているだけというのは思い過ごしだったのかとケンタは心の中で慨嘆した。



 昼食後は夕方まで自由行動になり、生徒たちは班ごとに三々五々東大寺や春日大社を目指して散っていった。ケンタたちも、まずは大仏を見に行こうぜというダイゴの鶴の一声で東大寺大仏殿を目指すことになった。

 当然、ケンタが受付に並んで人数分の拝観券を買う。立て替えた分は後で払ってもらえないことは覚悟していた。もしかしたらコウジは払ってくれるかな。ちょっぴり淡い期待を抱く。

 大仏の大きさに、でけえなあとか、あのパンチパーマ何だよとか、睨んでんじゃねえよなとか口々に言いながら、四方ぐるりとさまざまな角度から大仏を観たところで、目ざといヤスシが1本の柱に穴が開いているのを発見して早速ダイゴに報告した。

「なんで穴が開いてんだ?」

 と聞くダイゴに、ヤスシが説明しろとケンタに振ってきた。

「あ、あの穴は大仏様の鼻の穴と同じ大きさで、柱くぐりといって、くぐり抜けるとご利益があるらしいよ」

 ガイドブックからの寄せ集めの知識を披露すると、ダイゴはふーんとうなずいてから、

「俺はデカいからムリだな。おまえらやってみろよ」

 と促してきたので、必然的にケンタが最初にくぐることになった。直径120センチの柱の根元に縦37センチ、横30センチの四角い穴が開いているとガイドブックに書いてあったが、実際に見るとなかなかに狭い穴で、大人の男の人ではくぐるのは無理そうだ。ダイゴの身長は170センチで骨格も大人と同じぐらいしっかりしているから、通り抜けるのはまず不可能だろう。

 小柄で細いケンタは腹ばいのまま途中1回も引っかかることなく、その狭い穴を難なくするりと抜けて、膝をつきながら柱の向こう側へ出て立ち上がった。続いてコウジが挑戦する。コウジも背丈はケンタより少し高い程度で、肩幅は若干広めだが痩せぎすだったので、最初に肩を少し入れづらそうにしていたものの、すぐにすっと通り抜けた。

 ヒエラルキー的には次の順番だったが、ぽっちゃり型の自分には回ってこないだろうとたかをくくっていたヤスシは、ダイゴがイライラと足踏みをし始めたのを見て、

「え? 僕も?」

 と不安げに周囲を見回した。ダイゴもヨウヘイもタツヤも当然だろという顔をしているので、ヤスシも恐る恐る柱の根元にしゃがんで穴に頭を入れた。

「ケンタ、動画撮っとけよ!」

 タツヤに言われて、ケンタは慌ててスマホの動画ボタンを押す。ヤスシは体はぽっちゃりしている割に比較的小顔なので、頭は問題なく入ったようだ。肩幅もそれほど広くはないので、順調に体が柱の中に吸い込まれていく。よかった、大丈夫、通り抜けられそうだ。ヤスシは閉所恐怖症の気味もあったので早く柱から出たくて、勢いをつけて体を奥のほうに滑らせた。ところが3分の2ほど進んだところで、太った腹と尻が穴に引っかかってしまった。

「もたもたすんなー。早く出てこいよー」

 タツヤが煽るのでヤスシも焦って抜けようとするのだが、どうしても前に進まない。無様に足をバタバタさせるだけだ。ケンタは、顔こそ映っていないものの、そんな様子を動画におさめているのが気の毒になってきて、こっそり撮影をストップして消去ボタンを押した。ボタンを間違えてうまく撮れなかったことにしようと、スマホを構えて撮っているふりをしたまま考えていた。


 その時、うわあーという悲鳴が柱の中から聞こえてきた。ヤスシのバタ足が前より激しくなっている。どうやら前に進むのを諦めて後ろに戻ることにしたらしいのだが、穴に尻がぴったりはまってしまい、バックすることもできなくなってしまったらしい。さすがにヤバイと思ったのか、タツヤが片足を引っ張ってヤスシの体を柱から引っこ抜こうとしたがびくともしない。

「おい、手をかせよ!」

 タツヤに言われてコウジがもう片方の足をつかんでせーので引っ張ったが、やはりびくともしない。柱の中からはハアハアという激しい息遣いが聞こえてきた。頭が穴の途中にあって外が見えないので、ヤスシは過呼吸に陥ったらしかった。ケンタもスマホをほっぽり出して頭のほうに回り、

「ヤスシ君、がんばって」

 と声をかけ始めた。周りの観光客たちも事態に気づいたらしく、あたりがにわかに騒然となった。他のクラスメートも気づいて、先生を呼んでこようかと話し合っている。

 その刹那、大仏殿の中に一陣の風が吹き抜け、ケンタがリュックの外側のポケットに入れていた『京都・奈良ガイドブック』が風に巻き上げられて床に落ちた。拾い上げようとかがむと、ちょうど大仏殿のページが開かれていて、「柱くぐりのコツ」というコラムが目にとまった。ケンタはガイドブックのコラムの文字を目で追い、夢中でヤスシに向って叫んだ。

「ヤスシ君、よく聞いて! 体を横向きにしてみて!」

 ヤスシはパニックでしばらくは誰の声も耳に入らないようだったが、ケンタが根気よく声をかけ続けると、もぞもぞと動いて何とか体をひねって縦にし、地面に垂直の横向きの体勢になった。ふうーっと息を吐く音が聞こえる。縦のほうが横幅より7センチ長いので少し体が楽になったのだろう。

「ヤスシ君、手を前に伸ばせる?」

 その声かけに、腹ばいになっていた時は伸ばすのを忘れて体の横にぴったりとつけて気をつけの姿勢のままだった両腕を、何とか抜き出して前に出し、横向きの万歳のような格好になった。本当は横向きよりも四角い穴の対角線になるように体を斜めにしたほうがさらに抜けやすいと書いてあったので、ケンタは勇気を振り絞ってヨウヘイを大声で呼んだ。

「ヨウヘイ君、こっちに来て!」

 ヨウヘイもふだんなら呼びつけられなどしたらケンタをぶっ飛ばすところだが、さすがの緊急事態に素直にこちら側に移動してきた。

「どうするんだよ。ケツが引っかかってるから引っ張ったってムリだぞ」

「そうだよ。後ろからみんなで引っ張ったほうがいいんじゃないか」

 懐疑的なヨウヘイとタツヤに対して、

「僕とヨウヘイ君はヤスシ君の体を左側に傾けるから、タツヤ君とコウジ君は足のほうを右側に傾けて。せーので同時にね!」

 とケンタは自分でもびっくりするほど的確な指示をテキパキとみんなに出した。ケンタの勢いにのまれて、誰一人文句を言う者はいなかった。それぞれが持ち場につくと、

「いい? せーの!」

 ケンタの号令でヤスシの体は斜め45度に傾いた。

「痛!」と小さく叫ぶ声が聞こえたがダメージはそれほど大きくなさそうだったので、ケンタとヨウヘイはそのままヤスシの腕を片方ずつ引っ張った。万歳の格好のままずるずるとヤスシの体が穴から引きずり出されてくる。爪先まで完全に抜けると、ヤスシは顔を上げて大きく息を吸い込んだ。顔中汗でびっしょりなのに顔色は青ざめている。

 そこここから自然と拍手が沸き起こった。ヨウヘイも、柱の向こう側にいたタツヤとコウジも一様にほっとした顔をしている。ダイゴだけが1歩下がったところで顔に何の表情も浮かべずに黙って5人を見ていたが、遠巻きに見ていたクラスの女子数人が、ノリコ先生に報告したほうがいいんじゃないのと言い出したのを聞きつけて、

「おまえら言うんじゃねえぞ!」

 と睨みつけたので女子たちも黙ってしまい、次の観光スポットへと足早に去って行った。


 柱から抜け出したヤスシは、大仏殿の壁際に座り込んでいたが、ケンタとコウジがペットボトルの水を飲ませたり、クリアファイルであおいでやったりしているうちに、だんだんと汗も引き、顔色も戻って気分も落ち着いてきたようだった。その様子を見てダイゴが、

「もう行くぞ!」

 と声をかけると、ヤスシも少し照れ臭そうな笑みを浮かべながらゆっくりと立ち上がってみんなと一緒に歩き出した。外に出てしんがりのケンタが後ろを振り返ると、大仏殿の屋根の上の二つの鴟尾(しび)のちょうど真ん中に、まるで初めからそこに据え付けられていたかのように守護神が翼を広げて止まっているのが見えた。さっきのもきっと守護神が助けてくれたんだ。ケンタは強い確信を得て守護神に心の中で礼を言いながら大仏殿を後にした。

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