第3話空想の果実
目が覚めるとそこは暗闇の中だった。意識は明瞭、身体に力も入る。しかし、何も見えない。瞬きをしたり眼球をぐるりと動かしてみるが痛みはない。周りが暗いだけなのか、目がどうかしてしまったのかはわからない。どちらにせよ、光を一切感じられないのは不安でしかなかった。
私は仰向けの状態から四つん這いになり静かに動いた。手のひらには鉄の冷たい感触が伝わる。膝小僧を床に擦るように這っていくと、なにかに頭をぶつけてしまった。かなり痛いが声を殺して耐える。手で探ると金属の棒が縦に並んでいるようだった。どうやら檻の中にいるらしい。
「目が覚めたんだね」
何処からか女性の声がした。落ち着いた声色だった。私は少しの間をおいて答える。
「ハイ。しかし、メがミえない」
「そりゃこんな地下ではね。どれだけ目が慣れたってなにも見えはしないさ」
なるほど、蝋燭の灯が消えて光源が失われたのか。
「ワタシはツカマッタのですね」
「そうだね。キミ、名前はあるのかい?」
「……アナタは?」
「もう忘れたのかい? さっき会ったばかりじゃないか」
どうやら、檻の中で膝を抱えていた少女のようだ。私が答えなかったからか、彼女も名乗る気はないらしい。
あるいは、彼女には名前がないのかもしれない。このような世界だ。そういう生まれの者がいてもおかしくはない。
「ゴメンなさい……。ワタシはこれからどうなるのでしょうか」
「さあね。キミに値打ちがあるのなら売られるし、ないのなら処分される。ハミル次第さ」
私は絶句した。浮浪者にいったいどれほどの値打ちがあるというのか。無論、差別的な意味で言っているわけではない。たとえ、一つの命として尊かろうとそれは私個人の主観、または善良な人間の価値観にすぎない。人身売買を行う者からすれば、私に商品としての能力も希少性もありはしないことは明白だった。すでに、私の身は価値観の異なる悪人の手中にあるのだ。彼女の告げた言葉は、死刑宣告に等しかった。
「ハミル……」
その名を口にした私の声は震えていた。恐怖と絶望。そして、なによりあの男への怒りによって。
「ま、キミが悪い」
……なんだ? 聞き間違いか?
「イマ、ナンとイったのですか?」
「キミが悪い。そう言ったのさ」
理不尽な仕打ちに憤りを感じていた私は、その矛先を彼女へと向ける。
「どういうイミですか」
「そのままさ。仲間になることを断っただろう」
「アタリマエでしょう」
「なら胸でも張ればいい。選択に悔いがないのであれば」
「ドレイになることをエラんだわけではない」
「選んだのさ。他人の悪行を覗いておいて仲間にならないというのはそういうことだ。殺されても文句は言えない。それこそ、当たり前だろう」
「そんなのはアクニンのリクツだ」
「そうさ、キミが相手にしていたのは悪人だ。そしてここは悪人の腹の中だ。悪人の理屈に従うしかない。善良に生きたいのなら善良な世界で生きるべきだったのさ」
私にとってそれは暴論だった。誰も好き好んでこんな世界にいるわけではない。否応なく引きずりこまれたのだ。私自身に変化があったのではない。私が選んだのではない。ある日、突然に世界の有様が狂ったのだ。それでも、私は私なりの努力をして生活を営み、言葉も覚えた。見ず知らずの少女に自己責任論を押し付けられる
「アナタだって、ミズカらノゾんでここにいるわけではないはずだ」
「そうだね」
「こんなのはリフジンだ」
「そうだね」
「マチガっているのはこんなコトがマカりトオるヨノナカのほうじゃないか」
「そうだね」
「それなら――」
「現実を見ている」彼女はいった。「私は現実を見ているのさ」
私は沈黙した。
こちらの熱とは裏腹に、落ち着きはらった彼女の声色にひっぱられたのか、あるいは単純に戸惑ったのかもしれなかった。
私は、彼女の言葉の続きを待った。
「過去に囚われるのではない。未来に焦がれるのではない。夢に溺れるのではない。生きるとは、今このときに事実として現れているもの、それに応ずることだ」
「リョウシンをスててナカマになるべきだったとでも」
「いいや、良心を捨てずに仲間になるべきだった」
「それはムジュンしている」
「していないさ。仲間になるフリと言い換えてもいい。そうすれば、君は檻の外で目覚めていたかもしれない」
「それはイマだからイえることだ」
「結果論ではない。そう思うのはキミが現実を見ていないからだ。過去の自分はこうしてきた。未来の自分はこうあるべきだ。ここがこうであそこがああなら理想的な結果になるに違いない――そんなものは全てキミの思い込みだ」
反論はできなかった。
「現実以外には価値などない――そういっているわけではない。過去とは経験だ。未来とは予見だ。夢とは標だ。だが、我々が存在するのは今この瞬間だ。目の前の事象から目を背けては必ず足元をすくわれる」
なにも見えない暗闇の中、私はゆっくりと目を閉じた。
私はいま、檻の中にいる。それは、私が地下への階段を降りてきたからであり、私が林檎酒を飲んだからだ。今の状況を回避する機会はいくらでもあった。しかし、私はそれらを全てふいにした。
――なぜなのか。
現実から目を背けていたからだ。ハミルが私の知りたいことを知っていて、私を助けてくれるのだと決めつけていた。
――根拠はあったのか。
そんなものはない。そうであれば楽だと思ったからだ。
自分が向かっている方向すら確認せず、見知らぬ案内人の後姿を追っていた。相手の内面も周囲の景色も見えず日の光の届かぬ場所までやってきた。そうして、足元の影は広がり闇となって私をのみこんだのだ。
仲間に誘われたとき、それが最後の機会だった。それにもかかわらず、私はただ、やりたくないという感情のままに答えた。なにも見ず、なにも考えず、やり直しのできない選択をつきつけられていることにさえ気づかずに。
ハミルは私を見ていた。私の言動を洞察し、応じていた。なにも見ていない私が騙されるのは自明の理だ。
「……愚かだ」悔恨の念が私の口からこぼれる。
そして、それを待っていたかのように彼女は語り始めた。
「空想の果実を描いてはいけない。それを見て癒されることはあるだろう。それを目指して歩くことはできるだろう。しかし、そこにはなにもない。描いた果実はただの絵だ。虚構だ。かじることもできなければ、のどを潤すこともない」
その通りだ。私は空想の果実を描き、それに手を伸ばした。その愚行は私の過ちに違いない。しかし、一点だけ腑に落ちない点があった。その果実が見えていたのは私だけではないのだ。ハミルもまた私の描いた果実が見えていたのだ。それはなぜなのか――もはや手遅れかもしれないが、それだけはなんとしても確認をしなければならない。
ゆっくりと目を開ける。正面を見据えるがやはりそこは暗闇のままだった。それでも絶望はしていない。私は一つの標を得た気がした。まったくの空想ではない。現実を見据えたうえで残された可能性に目を向ける。
虚構だと確約されているわけではない。ハミルの話に虚実が混じっているのなら虚をふるい落として実を拾う。
私はこれを賭けだとは思わない。いまの私に出来ることはこれしかないのだから。
◇
――少女との話を終え、しばらくした頃。
カツカツと、石を打つ音が聞こえてきた。何者かが地下への階段を降りてくる足音だ。
私は身体を起こし、音のするほうへ正対する。足音が迫るにつれ、それが一人のものではないということに気がついた。
やがて、ぼんやりと淡い光が広がり、ハミルが姿を現した。側には口元を布で隠した黒装束の女を連れていた。ハミルは手にさげたランタンの火を燭台の蝋燭に移していく。闇が払われ、私はあらためて周囲を見渡した。
階段側の壁面に設けられた二つの燭台とハミルの持つランタン。そこから照らしだされる地下空間は主に石造りで床は土だ。檻は二メートル四方の立方体で格子も床も鉄。部屋の中央に位置しており、光源を正面とすると右に少女の檻、左に他より一回り大きな黒蜥蜴の檻があった。私が来たときと比べ変化はない様に思う。新しくわかったことといえば部屋の奥行きくらいだろうか。目が暗闇に慣れているのだ。これといった情報の更新はない。そのはずだが、どこか違和感を覚える。
「エルアド、出荷だ」
ハミルが黒蜥蜴の檻の前に立ち、告げた。
それを聞いても黒蜥蜴の様子に変化はなく、無言で伏したままだ。
買い手と思われる黒装束の女は檻に近づく。
「あなたに復讐の機会を与えます」
老いも幼さも感じさせない大人の声だった。光源を背にしているためかその瞳は酷く暗い。
「グウェリアと戦いなさい」
途端、黒蜥蜴は起き上がる。女と対峙したその眼には紅い火が揺らめく。
「セレインとグウェリアは近く戦争になるでしょう。あなたには前線で戦ってもらいます。待遇は一兵卒ですが活躍次第では相応の褒章を約束しましょう。不服はありませんね?」
「不服などあるものか。視界にうつるグウェリア兵は全て殺す。その褒章としてグウェリア兵を私の目の前に連れてこい。そうすれば永遠に奴らを殺すことができる」
驚くことに黒蜥蜴は人間の女性の声で答えた。外観からは似つかわしくないその声からは、その瞳に似つかわしい殺意が顕になっていた。
「結構。では、跪きなさい」
言われたままに、エルアドとよばれる黒蜥蜴は跪いて頭を垂れる。
黒装束の女はおもむろに取り出したナイフで自身の指先を傷つけると、腕を檻の中にいれてエルアドの頭上に差し出した。
血の雫がエルアドの眉間に落ちる。
「今はまだ名は明かせぬ。代わりにこの血をもって主従の契りとす」
「祖国の神々とエルアド・バシリスカス・ア=ゴアナディの名に懸けて――」
「ならぬ。そなたの国は滅び、神々は去った。その名の意味はもはや失われた」
「ならば、国を失い、友を失い、民を失ってなお、恥知らずにも生きながらえたこの身に懸けて――貴方に忠誠を誓う」
「よかろう」
女は檻から手を抜くと数歩退いた。入れ替わるように前に出たハミルが、鍵を解いて檻の扉を開ける。
エルアドはその巨躯をわずかに屈めて檻を出た。ハミルたちに襲いかかる素振りはない。従順にみえる。
ハミルにより燭台の灯が消される。不完全燃焼の微粒子が細い煙となり、まっすぐ昇っていく。
燭台の灯がまた一つ消える。ハミルのランタンだけが不気味に周囲を照らす。
そして、ハミルを先頭に、エルアドはこちらを一瞥することもなく、主人となった女とともに階段の向こう側へと消えた。
「エルアド……」
再び訪れた闇の中、私は彼女、あるいは彼の名を口にする。
彼女の事情は知らない。語らったのはほんの少しの間だけだ。
それでも、彼女には生きるうえで大切なこと教えてもらったと思っている。
そして、私が実のところなにも学んでなどいなかったということも。
私が先ほど周囲を見渡したときに感じた違和感の正体。それは、エルアドと少女の位置関係だった。
暗闇の中で少女だと思っていたその声の方向にいたのはエルアドだった。
一度だけ目にしていた姿形にとらわれて声の主は少女だと思い込んでいた。
私はまたしても空想を描き、現実を見ていなかったのだ。
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