第3話

 目下の問題は陸の新しい着替えか。今から陸の家──姉の家に俺が取りに行く方法がまず浮かんだ。今日は金曜日。現在時刻は22時。うちから陸の家まで電車で30分。徒歩移動時間も含めると往復で2時間あれば終電までには帰って来られそうだが姉が陸を俺んちにわざわざ預けている経緯を考えるとどうにも不運な遭遇が起きちまいそうで怖い。

「おじさん……。オレ、家の鍵持ってきてない……」

 はぁーーーー。やっぱ……そうだよな。

「いいんだよ。陸はなにも悪くない。陸は良い子だよ」

「……うん」

 陸の家に着替えを取りに行くのはナシだ。同じ理由で姉に連絡してうちに着替えを届けて貰う方法も消えた。次に店で新たに着替えを買ってくる手段を考える。量販店は閉まってるからコンビニか? しかし成人男女用の肌着は見かけるが小学生高学年男子用の着替えって都合よく売ってるものなんだろうか。この少子化の時代に。エロ本を撤去してまで売場を増やすほどカツカツ経営のコンビニに? う〜ん。

「お……おじさん。寒くなってきた。……へくしょんっ!」

 陸もそろそろ限界みたいだ。風邪を引かせちゃ元も子もない。

「わ! ご、ごめん。とりあえず陸、先にシャワー浴びてこいよ! 着替えはおじさんが何とかするから!」

「うん」

 俺はベトベトの陸を洗面所に連れて行った。陸は俺がすぐ後ろにいるのにも関わらず上を脱ぎ始めたが俺は陸の何も纏わない背中をチラッと一瞬見ただけで体の中から何かよく分からないものが駆け上ってくる気配を感じて思わず目を逸らしてクルリと後ろを向いてしまった。小5の甥の着替えに何ドキドキしてんだ俺!?

「じゃ、じゃあ俺は着替え用意しとくから?!」

「ありがと、おじさん」

 声変わり前のソプラノがしおらしく答えた。咽喉がジュースで潤された所為かどこか湿っぽく聞こえた。ほどなくしてシャワーの音が洗面所を満たした。

 しかし……実際のところ陸の着替えはどうすればいい? 俺のTシャツでも着せるか? 小学生だと流石にぶかぶかだろうが……下はどうする? ウエストは肩幅以上にシビアだ。陸の細い腰つきじゃストンと床に落ちるのが目に見えてる。陸のシャワーはいつも短い。烏の行水だ。早く見繕わないと……。

 とりあえず俺は洗ってあるTシャツを陸の着替えとして置いておく事にした。洗面所の床の上になるべく綺麗に畳んで陸の替えのぱんつの下に滑り込ませる。これで今夜はなんとか間に合うだろう。あとは今夜中に陸の濡れた服を洗濯して部屋に干しときゃ明日の昼には乾いてるさ。

 ふーやれやれと人心地つき部屋に戻って陸が吹き出したジュースの飛沫痕を拭いていると洗面所から陸の素っ頓狂な声が響いてきた。

「おじさーん! 何だよこれー!」

 驚いて洗面所に踵を返すと陸が俺の用意しただぶだぶのTシャツを着て怪訝な顔で訴えてきた。

「これ、パンツ見えちゃうじゃんか! 他の、ねーのかよ!?」

「えぇ!? 駄目なのか?」

 成人男性Lサイズの俺のTシャツを頭から被った陸は首元がゆるゆるで左右どちらかの鎖骨が肩にかけてほぼ見えてしまうようなサイズ感であり裾は陸の下着を覆い隠しはするものの屈めば陸のお尻が丸見えになってしまうという塩梅だった。とりあえず体温が保持できて隠すべき所は隠れればいいというつもりで見繕った着替えだが小学生の高学年にもなる陸には人知れぬ彼なりのこだわりがあるのかも知れない。

「オレが着てたようなの、ねーの?」

「ないよ……。だってオジサンだもん」

 陸の20歳上の男の回答にしては惨めだが現状陸に提供できる衣服はこれくらいしかないのだから仕方ない。あとはこの家にある衣装といえば小学生高学年女児向けの服くらいだが……でもあれは……用途が特殊すぎるよな……。

「それにこのTシャツ、なんかくせーぞ?」

「……マジ?」

 シャワー直後で柔らかい黒髪をまだ湿らせる陸が自分の右手の二の腕を顔の前まで近付けてくんくんと嗅いで見せる。三十路の着古したTシャツの匂いが11才男児に吟味される。直後に火照って薔薇色に染まる陸の額に皺が寄った。思わず仰け反った陸が梅干しをしゃぶったかの如く渋い顔付きになる。

「くっせぇ……くっせぇくっせぇわ……。おじさん、内臓どっか悪いんじゃねーか?」

「け……健康です!」

 まだ人生を知らぬ甥に加齢臭という悲しき宿命を教授したくなるが寸前で思い留まる。陸もいずれは同じ枷を背負うんだぞ。心の中で訴える。

「でも困ったね……おじさんの普段着が駄目なら、もう……」

「おじさん! オレ、おじさんの服以外だったら、何でも着るわ!」

 勇ましく陸は宣言するが言われた叔父さんは深く傷付いているのですよ。

 俺はふーやれやれ仕方ないなと陸の前でわざとらしく声に出した。その様を見て陸は「あるのか!?」と大きな黒い目をキラキラと輝かせる。

「あるよ」

 俺は他に手は尽くしたものな……という諦念を顔に浮かべて部屋の奥──開かずのクローゼットの扉を開いた。俺はここをパンドラと呼んでいる。中にみっちりと詰まっていたのは小学生高学年向けの衣服。カジュアルからフォーマル、パーティー、コスプレまでありとあらゆるTPOに応えられる夢の衣装空間だった。

 ただし。

 これらは全て。女の子用の服である。

 繰り返す。

 すべて。女児用。である!

「うへぇ。おじさん、なんでこんなに女子の服持ってんだ……?」

 俺がパンドラの箱を解き放つのを背後で見ていたぱんつにTシャツ姿の陸が呆れて訊いた。興味半分。恐怖半分といった様子だ。

「……知りたいか?」

 俺は振り返ると感情を入れず極めて紳士的に陸に尋ね返した。その様が陸にはかえって不気味に思われたのだろう。

「い、いい……。知らなくて」

 11年間地獄を生き抜いてきた少年の野生の勘が鋭く働き未然に危険を回避した。

「とりあえず……そうだな……陸には、この辺から始めるのがいいかな……」

 俺は怯える陸を尻目に陸のために新しい着替えを掘り出した。

 それは……何の変哲もない。少女用の白い夏用のワンピースだった。

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