第8話 常世の国にて二人

 窓一つ無い白い壁に掛けられた時計に目をやると、十五時五十分と表示されていた。

 ベルトコンベアを流れる大量の白いプラスティックカップとも、あと十分でさよならだ。集中力は限界に近いけれどあと少しだけ頑張ろう。


 異常なし。

 異常なし。

 異常なし。

 何も問題はなし。

 世はこともなし。


「十六時になりました。作業員の皆さまは速やかに退出してください」


 壁の時計に十六時と表示されると、スピーカーからドボルザークの「家路」をバックに抑揚の少ない女性の声が響いた。指示通りエアシャワーを浴びてから外に出る。


「光、お疲れさま」


 振り返ると、昴が笑顔で立っていた。


「昴もお疲れ」


「久しぶりの勤務だったけど、体は大丈夫そう?」


「うん。おかげさまでね。しっかし、週五勤務なんて何年ぶりだろう」


「前の会社を定年になる前だから……、十年くらい?」


「そんなにかあ……、その割には余裕があるかな」


「じゃあさ、帰りちょっと寄り道して帰らない? 前々から結構いい夕陽スポットを見つけてあったんだ」


「なにそれ! 早く教えてよ!」


「あはは、ごめんごめん。パートの後輩からいきなり誘われても戸惑うと思ったから」


 笑い合いながら薄暗い廊下を抜け、作業着から着替えて工場の外に出る。


「こっちこっち!」


 手を引かれながら進んだ先は、雑居ビルの最上階にある古びた喫茶店だった。

 窓際の席からはグラデーションがかかった空と、ビル群の彼方に沈んでいく夕陽が一望できる。


「へえ、こんなところがあったんだ」


「うん。ずっと光と一緒に来たかったんだ。気に入ってもらえた?」


「もちろん!」


「それなら、よかった」


 空のマグカップを傾けながら昴がはにかんだ笑みを浮かべる。もう二度とこんな日が来ることはないと思っていたのに。


「そういえば光、明日って何か予定あったっけ?」


「明日? えーと、たしか真由子が施設から出てくるから、ネイルパーツを一緒に買いに行こうって話になってて、集合時は十一時に駅前」


「うん。問題無く覚えてるね」


「あー、さては試したな?」


「ごめん、ごめん。いろいろあったからちょっと心配で」


「もう。そんなに心配しなくても、もう大丈夫だって」


「えー、でも、このあいだ二桁のかけ算で躓いてたじゃない?」


「それは元からだったと記憶してるんだけど? だいたい、生身の頃から四桁の計算をすらすらとける昴のほうが少数派だよ」


「えー? そうかなー?」


「そうそう」


 傾けた空のカップから酢酸ベンジルを主成分とした香りが漂ってくる。


「ところで、今日は十時くらいから良子と一緒に『Last Rhapsody』で遊ぶ予定だけど、昴も一緒に来るよね?」


「うん。久しぶりのゲームだから足引っ張らないか不安だけど」


「もともと、かなりのトッププレイヤーだったんだからすぐに調子戻るって!」


「そうかな? でも、やっぱりちょっと不安、かも」


「大丈夫、大丈夫! そういえば、今度さ……」


※※※


 他愛もない話をしているうちに、窓の外はすっかり夜になっていた。


「そろそろ帰ろうか」


「うん、そうだね」


 雑居ビルを出ると、通りは美男美女や可愛らしい動物で賑わっていた。

 不気味だ、だとか、綺麗すぎて暖かみが感じられない、とか難癖をつける人間もいるようだけれど、私はどう感じていたんだろうか。多分、そんなに否定的な感情を抱いていた訳ではないはず。


「光、どうしたの?」


 不意に、昴の顔に不安げな表情が浮かんだ。


「どこか調子悪い?」


「ううん、大丈夫だよ。ただ、まだちょこちょこ記憶に虫食いみたいなのがあるなって」


「ああそっか。まだ、再構築が終わって一年くらいだもんね」


「昴もこんなかんじだったの?」


「うーん、どうだろう。私は結構こまめにラーニング用の日記とか残してたから、そこまで違和感はなかったかも」


「えー、何かずるい」


「ズルくないよ! だって、光に関する部分の再構築が失敗するのは嫌だったし……」


「あ……、うん、なんか、ごめん」


「もう、いいよ」


 黒縁眼鏡をかけた顔が大げさに頬を膨らませる。そんな姿も愛らしいと思っていたと学習した。


「もう、なにニヤニヤしてるの」


「あはは、ごめんってば。私も昴に関する部分の再構築が失敗しなくてよかったなって。こうやってまた一緒に歩けるし」


「……うん」


「これからは、ずっと一緒にいよう」


「うん。約束だよ」


 差し伸べた手は記録しているとおりの握力で握り返された。

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常世の国にて 鯨井イルカ @TanakaYoshio

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