第7話 わたしとあなた
「視力、聴力、血圧は特に問題ありませんでした」
「うん」
「あとは血液検査の結果に異常がなければ、入所手続きを始められますよ」
「分かった」
「紹介状を出す施設は入所者からの評判もいいので、変に問題を起こさなければ快適に暮らしていけると思います」
「そっか。ありがとうね」
「別に。これも仕事ですから」
明るい診察室のなか、香織が視線をこちらに向けることすらせずに手元のタブレットを操作し続けている。
久しぶりに会った叔母の生身に対して冷たい気もするけれど、わざわざ介護施設を探してくれたんだから文句なんて言ったら罰が当たってしまうかな。
「今日は以上です」
「了解。じゃあ、これで」
「ああ、ちょっと待ってください」
不意にフレームの細い眼鏡をかけた目がこちらを向いた。
「これこれ、ばばぁは膝がいてぇんだから、立とうとするところに声を掛けないでほしいだぁよ」
「急に二、三世代くらい前のテンプレートな高齢者口調にならないでください」
「あはは。ごめん、ごめん。それでどうしたの?」
「今日これから予定とかありますか?」
「うーん、特にはないかな。しいて言えば、久しぶりの生身での外出だから外にある自販機のアイスでも買って歩きながら食べようかと」
「そういう行儀の悪いことはしないでください。それに、躓いた拍子に棒が喉に刺さったりしたらどうするんですか」
「えーと、ほら、モナカとかシュガーコーンのやつなら平気だし」
「そんなこと言って、いつも棒タイプのチョコミントしか食べないじゃないですか」
診察室の中に深いため息が響く。
たしかに買ってあげるついでなんて言い訳をしながら自分の分を買うときはいつもチョコミントだったけれど、よく覚えているものだ。さすがに医者になるだけあって、記憶力バツグンだなあ。
「ともかく特に用事がないのなら、スタッフに伝えておくので待合室にいてもらえますか? 家まで送りますよ」
少しヒス……感情の起伏が激しい部分もあるけれど、なんだかんだで優しいよねこの子も。小さい頃なんて誕生日のたびに折り紙で作った花をくれたし。
「なに急にニヤニヤしてるんですか?」
「いや、ちょっと思い出し笑い」
「ああ、そうですか。それで、送っていくかんじで大丈夫ですよね?」
「うーん、お気づかいはありがたいけれど、今回は遠慮しておくよ」
「え?」
眼鏡の奥にある睫毛の長い目が訝しげに細められた。
「そんなに、アイスが食べたいなら別に車の中で食べても構いませんよ?」
「……香織って、結構な天然さんだよね」
「な!? どういう意味ですかそれは!?」
「ごめん、ごめん。ちょっとした冗談だって」
「人を侮辱しておいて冗談で済ませようとしないでください!」
「えー、侮辱したわけじゃないよ。むしろ、可愛くていいと思ってるんだけどな」
「……そうですか」
甲高かった声のトーンが幾分か落ち着いた。こうも素直だとろくでもない男の甘い言葉に騙されないか心配になる。
まあ、なにかあったとしても一人で一からやり直せるだけのスキルはあるわけだし、文字通りの老婆心は必要ないだろう。
「それで、なんで断ったんです?」
「え、ああ、ほら、私もうしばらくしたら施設に入ることになるわけじゃない?」
「そうですね」
「ならさ、生身で外を出歩くなんてのはこれが最後だろうし、ちょっと散歩でもしておきたくて」
「紹介した施設は親族の付き添いがあれば、外出することもできますよ。事前に教えてもらえれば付き合いますし」
「あはは、それはありがとう。でも、香織も忙しいだろうから大丈夫だよ」
それに、私だけが自由に過ごすわけにもいかない。
「……ひょっとして、昴さんに悪い、なんて思ってませんか?」
「……あはは。昴のことは何年前の話だと思ってるの」
「それ、質問の答えになってませんよね」
「うん。だって、答える気ないし」
「まったく、もう」
診察室の中に再び深いため息が響く。
「こんなに滑らかにひねくれた返しができるのに、なんでロボットと生身の区別がつかなくなったりするんですか」
吐き出される言葉がどこか悲しげに聞こえるのは、叔母の自惚れだろうか?
ともかく、可愛い姪っ子をこれ以上心配させるわけにはいかない。
「まあ、そればっかりはどうしようもないよ。香織のおかげでいいかんじの施設に入れるわけだし、不満とか不安は何もないから安心して」
「そう、ですか」
「うん。じゃあ、もう帰っても大丈夫?」
「……はい、お大事にどうぞ」
「どうもね」
椅子から立ち上がると足の裏やら膝やらに鋭い痛みが走ったけれど、変に動きを止めたらまた余計な心配をかけてしまうからさっさと退散しよう。
会計を終えて外に出ると、空は夕焼けに染まっていた。雑踏に吹く生ぬるい風に周囲の飲食店からの匂いやら、道ばたの草の匂いやらが混じっている。夏は苦手だけれど、夏の夕方の雰囲気は昔から好きだ。
昴との思い出も沢山あるから。
「あれ、昴じゃん」
「あ、堂島さん。どうも」
「うん、お疲れ。こんな時間に生協の印刷機占領してどうしたの?」
「えっと、教職の授業で一緒だった人たちに、『最近忙しくて講義に出られなくて前期のレポートがヤバいから、ノートコピーさせて』って言われて」
「ふーん。そいつら、友達なの?」
「えっと、教職の講義で顔を合わせることはありましたが、そこまで親しくは、ない、です」
「そうなんだ。コピー代はちゃんともらった?」
「あ、それは、大丈夫です。コピーを渡すときに払うとも言われました、から」
「そっか。じゃあ、今終わってるところまでのコピー代は私が出すから、その紙束は後でシュレッダーにかけることにして一緒に夕陽見にいこうか」
「え? その、夕陽とは?」
「うん? 夕方の太陽のことだよ」
「いえ、そういうことじゃなくて。なせ、突然そんな話に、なるんですか?」
「だって、親しくもない気の弱そうな人間にノート貸してなんて迫ってくるやつらに関わったって、ろくなことにならないよ。絶対にコピー代も『今持ってないから、また今度ね』とか言って踏み倒すだろうし」
「そう、なん、ですか?」
「そうそう。それよりも、夕陽でも見てたほうがよっぽど有意義だって。昔から夏は夕暮れとか言われてるし」
「えーと、多分、ですが……『夏は夜』か、『秋は夕暮れ』だと思う気がします……」
「あれ? そうだっけ? ともかく、ちょっと先にある歩道橋がものすごくいいかんじの夕陽スポットだからさ、一緒に行こうよ」
「あ、はい。じゃあ、さっきの方達に断りを……」
「いいから、いいから。二度と会わないヤツらなんて放っておこう」
「わっ!? 急に引っ張らないでください!?」
昔のことは結構鮮明に思い出せるものだ。
一昨日の夕飯に何を食べたたかは危ういのに。
「へ? 付き合う? 昴が私と?」
「うん……。あの、助けてくれた日から、ずっと、光のことが好きで……」
「助ける? ああ、一年の頃のノートコピー恐喝事件のとき?」
「うん、そう。えっと、あの、その、ごめ、ん。急にそんなこと言われても、気持ち悪い、よ、ね」
「えーと、そいうことじゃなくて、ちょっとビックリしたみたいな」
「あ、うん。そう、だよね……」
「まあ、でもそういう話に抵抗はないかな。高校の頃とか普通に女子同士で付き合ってる友達とかいたし」
「え? そう、なの?」
「うん。不純異性交遊は校則で禁止されてたけれど、純粋な同性の交際は別に禁止されてなかったからね。あ、そういえば良子なんかは後輩からバレンタインチョコを山ほどもらってたなあ」
「たしかに。良子さんって、姉御肌っぽいところもあるから……」
「そうそう。ちなみに、真由子はなんか先輩にもててた」
「へー、そうなんだ。たしかに、なんか庇護欲みたいなの感じるもんね……それで、その、光、は?」
「私? 私はほら、休み時間に廊下で紙飛行機大会とか開催して、先生に呼び出される常習犯だったから」
「高校生にもなって廊下で開催するのはだめだよ……」
「あはは、本当だよね。まあ多分そんなんだったから、憧れだとか庇護欲だとか恋愛に発展しそうな感情をもたれることはなかったかな。なんというか、完全にイロモノ系」
「そう……。私は、そういうところも、好き、だけどな」
「本当? 私も、昴と一緒にいると落ち着くんだよね」
「えっ?」
「私さ小さい頃から女所帯だからか、いつか男子と付き合って結婚してってのが、昔からなんか上手く想像できなくて。多分こんな性格だから、あんまりロマンチックなことはできないと思うけれど」
「あ、の?」
「つまり、えーと……そんなかんじでもよかったら、よろしくお願いします」
「……うん!」
「あと、この歩道橋夕陽が綺麗だし人通り少ないからいいんだけれど、かなり揺れるからそろそろ降りようか」
「あ……、うん、そうだね」
あのときは照れくさくてすぐに帰ったけれど、夕陽の綺麗な場所だったからキスでもしていればそれなりにロマンチックな雰囲気になったのかもしれない。
「まったく、母さんめ。自分は旦那選びに失敗して離婚したくせに、人にはとやかく言うんだから」
「あ、えーと、だからこそなんじゃない、かな? 自分は色々あったから光には幸せになってほしい、みたいな」
「じゃあ、なんで反対するのさ。私、昴と一緒で幸せなのに」
「そこは、ほら、光の家ってなんというか古風なところだから、結婚して子供を授かることが一番の幸せだ、みたいな考えがあるんでしょ?」
「あー、それはあるかも……まったく、何十年も前の価値観をいつまで引きずってるんだか」
「……でも、お母様たちの気持ちも分からなくはないかも。私と一緒にいたら、子供は確実に授かれないわけだし。もし、光が子供を欲しいなら……」
「はい! そこ、暗い顔しない!」
「え? あ、ごめん」
「謝ってもだめ! 罰として夕陽に向かって一緒にダッシュ!」
「あ! ちょっと、光ってば待って!」
昴の本心を聞くのが怖くて、勢いでごまかしたこともあったなあ。
「た、ただいま……」
「お疲れさま、昴。仕事は落ち着いた?」
「うーん、微妙……。少し仮眠したら終電で会社に行くかも」
「え? 大丈夫なの!? 月曜日の朝に出かけて帰ってきたのが土曜日の夕方なんだよ!?」
「そう、だね。体はかなり限界かも。でもあと少しで一段落つきそうだし、すごくやり甲斐のあるプロジェクトだからもう少し頑張りたくて」
「あー、なんか詳細は話せないけどかなりすごい仕事なんだっけ?」
「うん。上手くいけば、世の中が画期的によくなるはずなんだ」
「じゃあ、まあ止めないけれど……、それならまだ会社に泊まってたほうがよかったんじゃないの?」
「あはは、そうかも。でも、光の顔、見たくなったし」
「……」
「ふふ、光ってば顔が赤いよ?」
「これは夕陽のせいですー!」
昴の言ったとおり世の中は画期的に変わった。
本当に良い方向に変わったのかは分からないけれど。
「光、明日はパートの日だっけ?」
「うん。十六時までまたプラスティックカップとにらめっこだよ」
「そっか。ロボットで行くの?」
「そうだなぁ……、たまには外の空気吸いたいし生身で行こうかな」
「ならさ、帰りに久しぶりにどこかご飯食べに行かない?」
「いいね! でも、高齢者二人で行っても大丈夫かな?」
「大丈夫。高齢者歓迎ってところを探しておいたから」
「おお! ありがとう! いやあ、最近はどこに行っても風当りが強くてまいるね」
「うん……。本当は、こんな世の中にしたかったわけじゃないんだけどね……」
「……。ほらほら、落ち込まないの! 取りあえず明日はパーッと楽しもう!」
「……うん!」
「じゃあ、十七時くらいになったら駅に来て! あ、間違ってロボットで来ないでよ!」
「もう、そんなことしないよ!」
あのあとパートの休み時間に「絶対に生身で来て」とメッセージで念を押していれば、私たちはまだ一緒にいられたのかもしれない。
夕陽の中の思い出がやけに鮮明に次々と蘇ってくる。
それなのに、昴の顔だけが影になって見えない。
良子の追悼ページに載っていた写真で何度も見たはずなのに。
毎日壁に貼った写真を眺めていたはずなのに。
※※※
気がつくと駅まで来ていた。
アイス、買いそびれてしまった……、仕方ないから家の最寄り駅で買おう。たしか、同じ自販機があったはずだから。
それにしても、今日はいつもより人が多い気がする。
「大きな声で失礼いたします! 県知事候補の高松和夫でございます!」
突然、宣言通りの声が耳に届いた。人だかりの中心に軍服に似た格好の青年が立っている。
そういえば投票日は明日だったし、街頭演説かな。人混みをかき分ける気力も湧かないし、捌けるのを待つついでに聞いていくことにしよう。
「未来ある若者の皆さま! 私はともにこの国を身勝手で強欲な高齢者たちから取り戻すためにまいりました!」
残照の中、軍服姿の青年が声高らかに叫んでいる。
そういえば、選挙カーが通った時にもこんなかんじのことを言っていた気がする。若気の至りは結構なのだけれど、これって某かの法律に引っかかるんじゃないだろうか?
「ねえ、あれってヘイトスピーチ云々とか引っかかるんじゃないの?」
「さあ、大丈夫なんじゃない? あれってたしか、外国出身の人たちに対する差別を禁止して云々って話だったはずだし。知らないけど」
近くから聞こえた会話が疑問に答えてくれた。
それでも高齢者の中に外国出身者が含まれているとか誰かが指摘したら、マズいことになる――
「この国は高齢者達のせいで未曾有の危機を迎えております!」
「そうだ、そうだ!」
「もっと言ってやれ!」
――というのは無用な心配なのかもしれない。
少なくとも、熱狂的な支持者がいるみたいだから、なんだかんだで庇ってもらえるんだろう。
「彼等は自分たちの生活を守るために、若者達に金銭的にも肉体的にも負担をかけ!」
そう言われても、昔に比べれば医療費の自己負担額ものすごく増えて、年金の支給額はものすごく減っている。それに、介護だってロボットを使って自分でするか大人しく完全自動化の施設に入っているんだから、少しくらい大目に見てほしい。
「作業量に比べて報酬の高い仕事を占有し!」
あー、私のパートみたいな仕事のことかな。たしかに楽な仕事ではあるけれど、最低時給ピッタリくらいの給料なんだけどな。それにしても、昔は重要な仕事に年寄りが居座りすぎて社会がダメになるなんて話も聞こえていたのに、時代は変わったものだ。
「若かりしころに目先の利益を追求して具体的かつ抜本的な対策を怠ったせいで! 皆さまのような未来ある若者達にしわ寄せが来ているのです!」
そう言うわりには、君も具体的かつ抜本的な話をしていないじゃないか。
「だからこそ、私たちは欲深い高齢者達から未来を取り戻さなくてはならないのです!」
なんだか口調と手振りは激しいけれど、内容はものすごくふんわりしている気がする。
「今こそ! 我々とともに欲深い高齢者達から未来を取り戻しましょう!」
直前で言ったことと同じことを繰り返しているし、これ以上聞いていても仕方がなさそうだけれど人混みはまだ捌けそうにない。
「カズくん! いい加減にしなさい!」
突然、しわがれた怒鳴り声が演説を遮った。人混みを押し分けながら誰かが演説者に近づいている。
あれは、高岡、さん?
「か、母、さん?」
つい先ほどまで自信に満ちあふれていた顔が一気に青ざめた。
まあ、自己陶酔気味に演説をしている途中で母親に怒鳴られたら、そんな表情にもなるか。
「ちょっと、母さん、今日は家で待っててほしいって言ったじゃないか……」
「黙りなさい! こんな格好でこんな恥知らずなことを大声で喚いて! お母さん、カズくんをそんな風に育てた覚えはないんだからね!」
「はい……」
伸びていた背筋が見る見るうちに萎縮していく。
それにしても母親ということは、高岡さんは本当は高岡さんじゃなくて高松さんだったのか。かなり長い間間違えて覚えていたかもしれない。これは、香織に「明確な役満」と言われるのも仕方がないな。
「さっきから年寄りを悪者にしてるけれど、ついこの間も今日配るビラに証紙だかなんだかを貼るのが間に合わないからって、お母さんが手伝ってあげたばっかりじゃない! そんなに、年寄りが嫌いならカズくんとお友達だけでやればよかったでしょ!」
「だって、それは、今回がはじめてだから、勝手が分かんなくて……」
「言い訳をしない! まったく、カズくんはいつまでも馬鹿なことばかりして……、お兄ちゃんはちゃんと働いて、結婚もして、子供だっているのに」
「……今、兄さんは関係ないじゃないか」
「黙りなさい! 本当になんでお兄ちゃんみたいに普通にできないの」
「……母さんは、そうやって、すぐ」
うな垂れた顔に、恨みがましいのか拗ねているのか判断がつかない表情が浮かんでいる。優秀な兄弟と逐一比べられながら育った結果、色々と拗らせすぎてしまったのだろう。私も姉がかなり優秀なほうだから、気持ちは分からなくもない。
「なんか興ざめだね」
「うん、もう帰ろうか」
人混みもようやく捌けはじめた。
この流れにのって駅に――
「ちょっと、押すなよ」
「こっちも後ろから押されてるんだよ」
「すみません通してください」
「そこ、立ち止まらないで」
――向かいたかったのに。
人混みのあちらこちらで不満げな声があがっている。
「ちょっと、横入りしないで」
「は? お前年寄りだろ。いつも偽物の体で楽してるくせに、生身で必死に働いてる俺らに偉そうにしてるんじゃねえよ」
「はあ? 私たちが若い頃に比べたらあんた達なんてなんにも苦労してないじゃない。いいから、横入りはやめなさい」
「うるせえよ」
なんだか不穏なやり取りも聞こえてくる。
まあ、実は高松さんだった高岡さんの息子さんの支持者たちも集まっているのだから、こんなイザコザは起こるに決まっているか。ただ、もう少し人が少ないところでやってほしい。
「どけよ! このクソ老害!」
「わっ!?」
また別の方向から怒鳴り声と悲鳴が聞こえてきた。誰かが誰かを突き飛ばしたようだ。
「うわっ!?」
「ちょ、どいっ」
「ぐむっ」
うめき声のような悲鳴とジワジワとした圧迫感がこちらに迫ってくる。
人雪崩に巻き込まれる映像なんて貴重ではあるけれど、見ていて気分がいいものではないし一旦スリープモードにしてゴーグルを外すそう。こういう場合だったら、故障したとしても修理代は保険でどうにかなるはず。
あれ?
コントローラーがない?
どこかに置いた覚えはないのに。
ああ。
そうだ。
今日は。
いつの間にかペンギンが描かれたティーシャツの背中が目の前に迫っていた。
避けることも出来ずにそのまま体が後ろに倒れていく。
「痛い痛い痛い痛い!」
背中に違和感があるから、誰かの脚か腕でも下敷きにしてしまったのだろう。下の方から金切り声の悲鳴が響いてくる。
「どいて! どいてってば!」
そんなこと言われてもこちらだって身動きが取れる状況じゃない。
重い。
苦しい。
なんだか聞こえたらマズい類の音が体中から聞こえてくる。
全身がものすごく痛い。
悲鳴を上げたいのに声すら出せない。
さすがに、これは死ぬかもしれない。
そうしたら、また昴に会えるかな。
「光!」
突然、名前を呼ばれ、腕を強く引っ張られた。ペンギンと地面の間から体がずるりと抜け出し、そのままどこかに引きずられていく。
「光! しっかりして!」
暗くなっていく視界のなかに誰かが立っている。
乱れた長い前髪。
つるの折れた黒縁眼鏡。
猫背気味の背中。
肘の辺りで千切れた腕。
そこから垂れる無数のコード。
たしか同じラインで働いてる短期アルバイトの佐藤じゃなくて、佐々木じゃなくて、鈴木でもなくて、斉藤さん……なんて子は最初から居なくて。
「……なんだ。意外に近くに居たんだね、昴」
「……うん。思い出して、くれたんだね」
耳に届く声も、もう一度聞きたいと望んでいたものだった。
「ごめんね、ずっと、忘れてて」
「ううん。仕方ないよ、本当の私はもう死んでるんだから」
「そっか……、実は生きてて、悪の組織に機械人間にされてた、とかじゃないんだ……」
「ごめん。そういう昭和のSFマンガみたいなかんじ、では、ない、かな」
「あは、は。べつに、謝ることじゃないよ、でも良子の都市伝説が本当だったなんて、ね」
「全部が本当ってわけじゃないんだけど……、私はほら、高齢者用ロボット関係のプロジェクトに関わってて……、何かあったら人格の再構成に関する実験に各種情報を提供するって契約もしてたから……」
「そっか……、難しいことはよく分からない、けど、再構築っていうのは成功した、みたいだね」
「うん。光への好意もちゃんと再構築できたんだけど、規程で部外者に実験のことを教えられないことになってて」
「あ、はは。じゃあ、教えてくれたってことは、死人に口なしだから、か」
「……光のことは、絶対に助けるから」
「それは、ありがとう。でも、心残り、は、ない、よ。最期にまた、会えたし」
「でも」
「それよりも、さ、もう少し、顔、こっちに」
「……うん」
真っ暗な視界の中、微かな熱が顔に近づいてくるのを感じる。
すりあわせた頬の滑らかさも、重ねた唇の柔らかさも覚えているものと全く変わらない。
「光、今は、ゆっくり休んで」
消えていく意識のなか、穏やかで優しい声がいつまでも響いていた。
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