第17話 櫛引 秀俊

「あら、櫛引さん。こんにちは」


 声をかけられた櫛引は「やあ」と返す。


 カートの上ではメリーがお姫様のように鎮座していた。


 美来にとってはロータスこそが世界で一番の美猫だが、このメリーになら二番目の地位をあげてもいいと思うくらいだ。


 そして櫛引はいかにもその従者という雰囲気だ。


 まあ爺、という歳ではないが……、爺の方がしっくりくる。


 この二人は本当にお似合いだと思う。


 ロータスが恐る恐るメリーに近づき、猫パンチの洗礼を受ける。


 空振りなので怯みはするも、再び近づこうとするロータスに内心で「頑張れ」と応援した。


「ところで。メリーって、やっぱりメリー・クリスマスとかのメリーから来てるんですか?」


 何気に聞いてみると、櫛引は少し照れたような様子で、


「正しくは、『メリクリウス』でね。メリーってのは愛称なんだけど」


 と頭を掻く。


 一瞬ニット帽が外れ、慌ててつけ直した。


 美来は何も見なかったフリをして話を続ける。


「そうなんですね。素敵な響きです。どういう意味なんですか?」


「英語ではマーキュリー。水星って意味だよ。眼が水色で美しいと思ったから、そこから付けたんだけど。それ以外に特にこれといって深い意味はなくて……」


 小っ恥ずかしいという様子で語る。


「いいんじゃないですか? 素敵だと思いますよ」


 確かにメリーの眼は宝石のように美しい。ロータスのゴールドの眼も引けを取らないが。


「ロータスっていう名前も珍しいですね」


 そう言われて美来の顔はニヤける。


 ロータス。


 ギリシャ神話で、現世を忘れ夢心地になれると言われる実をつける植物のこと。


 実在する植物ではハス、またはスイレンのことを指す。


 ロータス効果という言葉もあり、これは材料工学においてハス科の植物に見られる自浄性を指す。


 また水を弾くという意味もあり、ロータス効果の英語は商標登録されているので取り扱いには注意が必要だ。


 現実を忘れ、夢心地にしてくれて心を浄化して癒やしてくれる。


 そんな存在にピッタリだと名付けた。


 ほとんど自動的に口から出る言葉を、櫛引は少し引き気味に聞いていた。


「櫛引さん、メリーを吸う時どうやってるんですか?」


「はい? 吸う? ですか?」


 櫛引は困惑の表情を浮かべる。


「吸う……、とはどういう?」


「大麻を吸うな。ネコを吸えって言うじゃないですか」


 櫛引は「いやあ……」と苦笑いしながら首をひねる。


「お腹見せて寝てたら、顔をうずめてすーはすーはしません?」


「いや……、やったことないです」


「やってみるといいですよ。どんなに辛いことがあってもネコを吸えば大抵のことはどうでもよくなります」


 櫛引はやや引きつったように笑っていたが、


「でも、僕には難しいと思います」


 とメリーの背に手を伸ばす。


 端から見ればただお猫様を撫でて差し上げる行動だが、メリーは背に指が触れるか、というタイミングで振り返り、櫛引の手に猫パンチを三発見舞った。


 たはは……、櫛引は苦笑いする。


「メリーは、基本触らせてくれなくてね……」


「あー、いますね。そういう子も」


 自分から膝や肩には乗ってくるのに、人から触られることを嫌がる。


 要するに姫様、女王様気質のお猫様だ。


 ほとんどは触れられることよりも、匂いを移されることをよしとしない場合が多い。


 根気よく慣れさせることで撫でることはできるようになるが、その後触られた部分を舐めて匂いをつけ直したりする。


 ロータスはそんなことが無かったので気にしたことはなかったが、後で匂いをつけ直されたりすると、自分がバイキンのように思われているのかと悲しくなったかもしれない。


 でもそこは個人――個ネコの性格なのだから仕方ない。


「でも良かったね、ローたん。嫌われてるわけじゃなかったみたいよ?」


 ロータスも近づけさせてもらえなかったが、櫛引に対しても同じなら、誰が近づいても同じなのだろう。


 ツンデレさんなんだね……と、ほとんど無意識にメリーの背に手を伸ばす。


 あっ! と思って手が硬直したが、信号の伝達が間に合わずメリーの背に手が触れる。


 だが女王様のようなお猫様は、何の抵抗をするでもなく大人しく撫でられていた。


「あれ? なんで?」


 と櫛引も引きつったように笑う。


 メリーは背を撫でられながら目を細めて美来を見る。そのままふわふわの長毛を撫で続けた。


 それを見てか、紛れてロータスも近づこうと身を乗り出したが、こちらは「ヴー」と唸られて引っ込んだ。


「でも、毛並みはキレイですね」


「まあ、ブラシは平気みたいで」


 ああなるほど、と納得する。


「でも……、どうして古川さんは大丈夫なんだ?」


 櫛引はメリーの顔を覗き込むようにして首をひねる。


「単純に性別なだけのときもありますよ。メリーは男性、オスネコに触れられたくないんだと思います」


 そうなのかなぁ、と釈然としない様子の櫛引に、


「寝る時は側にいるんですか?」


 と聞いてみる。


「一応ね。座布団にされてるケド」


 と苦笑いする。


 確かに座布団としては快適そうだ。


「ならやはり、メリーは櫛引さんのことが大好きですよ。さっきの猫パンチも爪は出してなかったですし」


 メリー自身は櫛引と対等、あるいはそれ以上の立場だと思っているようだが、現在は事実そうなのだし、ある意味最適な関係を保っているのかもしれない。


 上級猫民なのだから、お猫様の信頼を得ているのはもちろんだが、それは単に下僕としてではなく、家族として一緒にいたいと思っているように感じる。


「メリーもそうですけど、やっぱり櫛引さんが、メリーのことが好きだからですよ。それを感じ取ってくれているんです」


「そうだね。それはそうかも」


 櫛引はメリーを愛おしそうに見、メリーもアイコンタクトを返す。


「櫛引さんも、ご飯代がなくなっても、自分の食費を削ってでもメリーに食べさせてあげたいと思ってるんじゃないですか?」


 美来はそう思っている。


 自分は生きられるだけ食べられるなら十分だ。


「そう……かな? そうかも……。でも……、そこまで困窮しているなら、多分ネコ餌も買えない状況だと思うし」


 現実的なことを言うが、美来は天然な笑みを浮かべたまま言う。


「大丈夫です。ご飯がなければ、髪の毛を毟ればいい」


「いや……、それは……」

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