Ⅲ.
「むかし、夫がいました」
若やぎもせず、感情の昂ぶりもないまま女の声は、風に
「泊まりの仕事をしていた夫は、一日おきにここから昼のバスに乗りました。私はいつもそれをあそこのベランダから見下ろしてたんです」
私は風音に包まれたまま、斜めうしろにいる女の声を聞いていた。
声のみで気配、というものが女にはなかった。
「そう。あれは今日みたいな午後でした――。いつものとおり私はここで、夫がひとりバスを待っているのを見ていました。すると夫は急に、何かの音を聞きつけたようにはっ、と顔を上げ――」
女は吐息をついた。風が鈍く光った。
道をへだてた変電所の門に一匹の赤蜻蛉がとまっている。白々と陽に
「―― そのまま消えてしまったんです」
「消えた?」
「ええ。本当に、何の前触れもなく、何も残さず、すっ、と消えてしまったんです」
視界のわずかに上で、切り通しを覆った雑草が音もなくさんざめく。
「それはどのくらい前のおはなしです?」
「さあ。―― あれからもう、どれほど過ぎたのか」
私は首だけを、うしろへわずかに回した。
「今となっては自分にほんとうに夫がいたのかどうかさえもう確信がありません。すべてはこんな天気のよい静かな午後にみた、他愛もない夢だったような気がして。――あら?」
わずかに女の口調がかわった。
薄い小さな雲が太陽から離れてゆき、にわかに周囲が明るくなった。
前触れもなく女は私のそばから走り去った。
空虚な陽射しのなか、往来の絶えた車道を女はかろやかに駆けてゆき、斜めむかいの停留所で立ち止まった。
女はふりかえり、こちらを見た。
晩秋の堅い陽差しをまっこうから浴びて、その顔はとほうもなく美しかった。
輝くばかりの清らかな微笑を浮かべたまま、女はなにかを見ていた。
とつじょ陽光が疾風と化し、砕けた千の
目がもとにもどったとき、女の姿はすでにどこにもなかった。
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