私が嫁いだ町 2話

 幸せな時間は、突然終わりを告げた。朝、いつもの習慣で郵便受けの中を確認すると一通の封筒が届いていた。宛先はやたら丸い文字で高宮光久とボールペンで綴られていた。彼は既に仕事に出ていたから書斎に置いておこうと、屋敷の中へきびすを返す。何の気なしに手紙を裏返すと『大野彼季』の署名が目に入った。

「おおの…かれ……」

 とても小さな町だった上に、高宮家はとりわけ交流が多かったから、その頃にはもう町人の名前を苗字くらいは把握していたが、大野という人物に心当たりは無かった。仕事関係の人なら私も粗方知っているはずだったが、この人物名は記憶に無い。第一この名前は何と読むのか。記憶力はかなりいい方なので『彼季』なんて読み方もわからない珍しい名前を忘れるとは考え難かった。明らかに女性の筆跡も相まってどうしても差出人が気になりその読み方をしばし考え込むと、突然閃いた。

「もしかして、アキさん…?」

 一度その名が浮かんでしまったら、もう自分を律することが出来なくなった。はっと我に返ったときには既に封筒の口は開いていた。仮に本当に差出人が光久の元恋人だったとして、今更何故手紙を送ってきたのであろうか。震える指で中の便箋を抜き出す。復縁を願い出てていたらどうしよう、あるいは隠れてまだ関係を持っていたのだとしたらどうしよう。呼吸をするのも忘れていた。そっと三つ折りに畳まれていたのを広げると、まず書き出しの『お久しぶりです。』という文にほっと息を吐く。一先ずしばらく連絡をとっていないという光久の言葉は真実であったようだ。さて、わざわざ手紙を出してくるなんて何の用件だろうか。

 最後まで読み終えて愕然とした。文面からは光久に対する愛情を微塵も感じられないどころか、子供を楯に金銭を要求していた。たかが一人分の養育費くらい大した額でもないのに、弱味に漬け込んで貪ろうとする態度が腹立たしかった。そして我が夫はお金を無心するような女に誑かされていたのかと憐れに思った。

 便箋を封筒の中に戻してようやく我に返り、さてこの手紙をどうしたものかと思案した。封を開いてしまったから、このまま渡したら勝手に読んだことがばれてしまうだろう。新しい封筒を買って偽装しようにも、筆跡は真似られても消印は作れない。盗み見てしまっことを白状しようかとも思ったが、愛想を尽かされるのがとても怖かった。それに私はこの手紙に怒りしか感じなかったが、光久は違ってまた恋心を思い出してしまうかもしれない。私はこの時、三つの過ちを犯した。一つ目は光久に無断で手紙を読んでしまったこと。二つ目は光久に手紙を見せないことにしたこと。そして三つ目は、私が光久の代わりに返事を出してしまったことだ。放っておけば良かったものを、このままにしたらいつまでも光久を当てにされそうで寝覚めが悪くて、とりあえず金銭的援助をする気はないということを簡潔に述べて返事とした。かなり冷たい言い回しをしたから諦めるだろうと思っていたのだが、予想に反してそれから数週間後に再び彼季から手紙が届いた。もう光久に見せるわけにはいかないと開き直って前回より罪悪感もなく開封すると、内容は変わらずお金を欲していてほとほと呆れた。幾ら郵便受けの確認が私の役割になっているとはいえ、絶対に他の人が見ないとも限らない。そう何度も手紙を送ってこられて運悪く光久に見つかりでもしたら思うと、背中につうっと冷や汗が伝った。もう二度と手紙なんて送ってこないようにと更に冷徹な文章を返信したが、また数週間後に懲りない手紙が届いた。始めに感じていた後ろめたさや罪悪感は消え失せ、今は兎に角手紙をやめさせなければと必死で返事の文面を考えた。その後も二、三回やりとりがあった後、手紙の要求が変わった。もう金はいいから、自分が死んだら息子を育ててくれと言うのだ。度が過ぎる身勝手さ、そして同じ親として我が子を放り出す無責任さに軽蔑せずにいられなかった。剰りにも軽蔑したために返事をする気にもなれず、今までの手紙全てを木箱に仕舞い、誰にも見つからないように寝室の戸棚の最奥に押し込んだ。

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