君の描いた町 7話

 どれくらい時間が経ったろう。月は窓枠からとっくに逃げ去っていた。綺麗に整理整頓された部屋はつい数日前までここで一人の人間が生活していたと信じがたい程、生活感が無かった。死を前にして予め身辺整理をしておいたのかもしれない。だからこそ早々に、机の上にぽつんと乗った一通の手紙が目についた。

『一俊さんへ』

 この家に手紙を残して逝くならば宛先は俺だろうと思って手に取ったから、その文字にはあまり動揺せずに済んだ。封筒から便箋を抜き出し開くと、小花柄の便箋に達筆な文字が綴られていた。

『この手紙を一俊さんが読んでいるということは私は既に死んでいるのでしょうね、貴方の贈ったジッポで。一度くらいは泣いたのかしら、それとも涙すら枯れてしまったかしら。貴方はとても可哀想な人。自分の気持ちすら理解してあげられない哀れな人。貴方が私を愛していること、貴方よりも私の方がよく知っていたわ、でも生きている内は絶対に教えてあげない。そして死んだ今は絶対に秘めてあげない。ずっと傷つけられてきた仕返し、効果はどうかしら。これが思いつく中で一番貴方にダメージを与えられる戦略だったのだけれども、どうでしょう貴方は自身の痛みを痛みとして感じるだけの感性をまだ残しているのかしら。深層の貴方は今とても苦しんでいるはずなのだけれども、可哀想な人。誰にも、自分にすら理解してはもらえない。私にしか。その私ももうこの世にいない。可哀想な人。

 可哀想だからひとつプレゼントを用意したの、もう見たかしら最期の作品。本当はね、理想郷が描きたかったの。だけど私には無理だった、だって私、一度たりともこの忌々しい町を出たことがないのだもの。高校は知っての通り町外だったけれど、毎日校門前まで車で送り迎えしていただいていたから実際に降り立って見たことのある風景は此処しか無かったのだもの。私も大概哀れね。ずっとこの檻から抜け出したかった、でも出来なかった……いいえ、本当に抜け出そうと強く願っていたならば、宏樹のように外へ行くこともきっと出来たのでしょうね。結局臆病だったのよ、変わることを恐れていたの。自分が可哀想だと気づくことすら出来ない可哀想な貴方の傍で、貴方を憎み歪みながら可哀想な人のふりをしている日々に感覚が麻痺していくのが、止められなかった。わかるかしら、わからないでしょうね、自分のことすら理解し得ない貴方に私のことなんてわからないでしょう。それでいいの、私はもう死んだのだから精々自責の念にでも駆られて痛む自分の心をまずは理解しなさい。とことんまで痛めつけてあげたのだから。

 一俊さんが大嫌いでした、さようなら。佐千代』

 瞼の壊れた無表情な人形が、ようやく静かに目を閉じた。瞳が見えなくなったとき、ようやく過去の自分の幻影が消え彼女自身を見られた。初めて見る大人の人形は妖艶で美しく芸術品のようでありながら、想像していたよりもずっと幼く人間味に溢れていた。今会えたなら、きっとキャンパスを介さなくてもわかるのに。もう二度と目覚めない。もう二度と、その瞳に俺が映ることはない。


 *     *     *


 電車に乗るのなんて何年ぶりだろうか。ガタンゴトンと揺られながら抱える鞄の中には、贈られたキャンパス。長い回想も現在に帰着し、そっと目を開けて窓の外を眺める。目の前に広がる風景はまだ田んぼや山々の広がる然して珍しくもないのどかなものだったが、佐千代がこれを見ていたらどんな絵を描いたのだろうと想像すると、木々の緑と空の蒼がより鮮やかに見える気がした。


 ―――――fin.

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