君の描いた町 4話
翌日、使用人が朝食の準備が整ったことを伝えに瑞姫の部屋の戸をノックしたが返事がなく、仕方なしに中に入ってみたところ悲惨な光景が出迎えた。瑞姫は部屋の真ん中で首を吊って死んでいた。四十三歳という若さだった。テーブルの上には遺書が残されており、何故このような結末に至ったのかということが記されていた。それによると理由は主に二つあり、ひとつは町人らの「瑞姫は子供の頃から出来損ないで抜けたところのある子だとは思っていたけれど、高宮の坊っちゃんを誑かして金銭を得ようとするほど見下げた女になるなんて。自分を恥ずかしいとは思わないのか。親が親なら娘も娘で、もういい歳なのにいつまでも親の脛をかじるどころか絵描きなんて遊び回って」という根も葉もない陰口を結婚してからずっと言われ続けていたことが耐えきれなかったということだった。俺はそんな噂話が出回っていたことなど全く知らなかったので心底驚いた。しかしそれ以上に驚いたことは、残るもうひとつの理由が実の娘である佐千代への嫉妬だったことだ。遺書の冒頭で、瑞姫は俺に対して謝罪している。何故かと言えば、俺と結婚したのは愛故でなく佐千代の才能を潰さずに済むための金銭が欲しかったためだったことをひた隠しにしていたからだ。あのロマンチスト女がそんな母親らしいことを考えていたのかと意外性は大きかったが、然して怒りは沸かなかった。俺自身瑞姫を愛していなかったのだからおあいこだし、寧ろ愛なんて重たい感情を押し付けられていなかったのだとわかってほっとしたくらいだ。さてここで何故その愛娘に嫉妬などするのかという疑問が生じるわけだが、これに関しては少々要領を得ず、文面から読み取ることが困難であった。だが何とか読み取れることを元にして推論を交えて言えば、ずっと頼れる相手もおらず独り娘のために犠牲になり続けていたというのに当の本人はそのことに感謝するどころか傷ついたような顔をして、挙げ句の果てに本来瑞姫が一俊から受けとるべき愛情をその一身に浴びていたから、といったところだ。
我が子のために行動し死を選ぶに至ったその姿は、行動の内容や意志の強さにこそ大きな違いはあるものの、もう乗り越えられていたとばかり思っていた実母の死を嫌でも思い出させた。それに伴って彼季を死へ追いやった元凶やこの町で過ごした苦しい日々を芋蔓式に連想させると同時に、今では自らがその一部となってしまったのだということを自覚した。抜けた夢見がちな女だったが、それでも佐千代にとっては欠けがえのないたった一人の母親だったわけで。親を失ったかつての自分と佐千代が重なり、その瞳越しに過去の自分の憎悪が見えた。
* * *
佐千代という存在そのものが過去をフラッシュバックさせるスイッチとなってしまったのは明白で、顔を会わせる度に全身の血液がさっと引いていくような、それでいて頭には血が上っているような、何とも形容しがたい感覚に襲われるようになった。同じ家に住んでいるのだから毎日行き逢ってしまうのは必然で、そうなるともう自分を制御できなかった。佐千代は俺の実母のことなど町で流れていた噂の範囲くらいでしか知らないわけで、光久が彼季を精神的に追い込んで殺したも同然だという俺だけが知っているのであろう真実など到底知る由もなく、俺が変貌してしまった理由に見当違いな誤解をしているだろうと解っていたが、あえてそれを説明してやる気にはなれなかったししたところで理解してはもらえないだろうなと思った。母親を反面教師として育った聡い義娘は、触らぬ神に祟りなしとばかりに俺を避けるようになった。この段階で屋敷から解き放ってやればよかったと今になって思うが、当時の自分はそんなことを露とも考えなかった。きっと失うことが怖かったのだ佐千代を。せめてそのことだけでもちゃんと自覚出来ていれば良かったと心底思う。
はっと気づけば目の前に痣だらけの佐千代が倒れているようになった。その度俺は慌てて抱き起こした。そのときの彼女の表情は、月日の流れと共に大きく変化していった。初めの数ヵ月は恐怖に怯えすぐに俺から距離をとろうとした。しばらくすると恐怖ではなく怒りを向けるようになり反撃を試みてきた。その段になってようやく佐千代を傷つけているのが理性を失った俺自身なのだと知り、佐千代の攻撃に対して抵抗する気は全く起こらずされるがままになった。華奢で体力もない佐千代の反撃はしかし直ぐに終わりを迎え、むくりと起き上がる頃には俺はまた理性を手放す。「綺麗だ」身体中につけられた傷や痣を見て呟くと、佐千代は奇怪なものを見るような目をし気味悪がった。
「画家佐千代に描かれたアートだろう」
そう言葉を続けて、初めて意識的に佐千代を殴った。俺のつける痣はどれも醜く、穢されていく美の哀れさに涙した。瑞姫の一回忌を迎える頃にはもう佐千代は抵抗することをやめていて、人形のように常に無表情となっていた。もう俺を殴ろうとすることもなく彼女の人間らしき部分が唯一表れるのはキャンパスだけになった。異常でしかないその姿が、人間味を欠如させたその姿が、それでいて内側には生々しい豊かすぎる程の感情を秘めたその姿が、とても美しいと感じた。内圧と外圧の差に破裂してしまいそうな危うさに魅入った。ずっと鎖で繋いで、この禍々しい過去を塗り重ねた籠城の中で呼吸をして、この場の憎悪やら劣情やらで満たされた空気だけを吸い、真っ新な呼気を目一杯吐き出して浄化して欲しいと思った。
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