君の描いた町 3話
秋分の日を過ぎた頃、宏樹が珍しく俺の部屋を訪れた。話があるというので椅子を回転させて仕事机に背を向けると、両の拳を強く握り唇を噛み締めてキッと俺を睨み付ける雄々しい表情をした男が目の前に立っていた。普段からは全く考えられない別人かと見紛うほどの荒々しい感情が表に現れていたのは、入室直後の僅か数秒。直ぐに宏樹はいつもの何も考えていないような呆けた顔に戻って―――つまりはこれがただ呆けているのではなく作られたものなのだと種明かししてしまったようなものだが―――ゆっくりと口を開いた。
「大学に行かせてください」
意外なその頼みは俺にとって願ってもないことだった。町から通える範囲に大学など無い。つまり、宏樹が高校を卒業したら町を離れるつもりだということを意味した。それは同時に、この町を束ねる高宮家当主の座を手放すということでもある。忌々しい人間の顔をもう見なくて済むかもしれないと歓喜の声を上げそうになるのを堪え、苦悶する振りをした。そして瞬時に脳内を様々な可能性、未来のパターンでいっぱいにし、念には念を入れることにする。
「大学にかかる費用は全て俺が出してやる。だからその代わり、もう二度とこの家に帰ってくるな」
反発されると思った。冷静に考えたら両親の遺産を取り分ければ、どの大学に入るにしろ費用に困ることなんて無いはずだった。それでも俺がこの台詞を苦々しく吐いたとき、宏樹は怒るどころか寧ろ安堵の表情を浮かべて頷いたのだった。
両親の一回忌、親戚らが談義を始めてしまうより前に宏樹が大学進学を予定してることを宣言した。「宏樹さんの能力は高校で終わってしまうには勿体無いものねぇ」とか「更なる知を得て高宮家に貢献してくれるだろう」とか好き勝手なことを口々に言い合い、反対よりも応援する者が多かった。後取りとして宏樹を推すつもりでいた者達も「取り合えず一俊を仮で据えておいて、大学で力をつけた宏樹が戻ってきたら代わらせればいい」という浅はかなことを都合よく考えたようで、当主の座は拍子抜けするほど簡単に俺のものになった。瑞姫は果たして高宮家の現状をどこまで理解できていたのかわからないが、それでも俺が当主となることが正式に決定して一番喜んでくれたのが彼女であることもまた事実で、正直このとき初めて瑞姫が俺の妻なのだと実感した。剰りに上手く行きすぎて、親戚たちの前でにこにこと御行儀良く微笑む宏樹の姿を横目で見ながら勝負に勝ったはずなのに俺は何か重大な見落としをしているのではないかと疑念を持ったものの、瑞姫が手放しで喜ぶ様子にそれらはきっと杞憂であろうと自らを説得した。
大学に合格した宏樹は予定通り家を出て、それきり一度たりとも家に戻ってくることは無かった。全く便りが来ないことを怪訝に思った宏樹派の親族らにせがまれ、彼が大学二年生の正月に渋々手紙を出してみたところ、住所が違うと返ってきた。このご時世に珍しく携帯電話も持っていなかったから、家を出て僅か二年足らずで音信不通になってしまった。大学に連絡すれば本人を捕まえることなど容易ではあったのだが、住所を変えてまで宏樹はこの御家と縁を切りたかったのだ、前々から宏樹には家を離れたいと相談されていたと親戚一同に力説してやった。納得しないものも少なからずいたが、難しい年頃だからしばらくそっとしておいてやろうということで何とか落ち着いた。宏樹のいない町は話題性に欠けてやたら静かだと感じた。それに反比例するかのように、今まで活気の無かった家の中は騒がしくなっていた。予想外にも宏樹から大学進学について直接は聞かされていなかったらしい佐千代は、彼が本当に引っ越していなくなってしばらくの内は生ける屍のごとく意気消沈していたのに、失踪が明らかとなったとたん自棄になったのか何なのか急に活動的に変わった。それまで何の将来性も意志も示さなかったのが一転、画家になりたいと宣い出したのだ。始めは無視していたものの、毎日毎日騒がれるのが煩わしくなってきたし、瑞姫にも頼まれたし、金は有り余っていたし、他に面白いことも無かったので、画材道具一式を買い与えて試しに数枚描かせてみることにした。するとこれが想像を遥かに上回る力量で、訊くと小学生の頃からことあるごとに絵で大きな賞をもらっていたとのことだった。次に美大に通わせろと言ってきたが、折角見つけた退屈しのぎの玩具を手放すのも惜しく、引っ越すことは却下した。すると何を思ったか屋敷を抜け出そうとするようになったので監視を付け、町人には佐千代は重病を患っているため外出は身体に障るのだとか適当な理由をつけて外で佐千代を見かけたら必ず報告するよう命じた。見えない鎖に繋がれたも同然となった佐千代は自室に閉じ籠り塞ぎ込むようになってしまいつまらなくなったので、大学へ行かせる代わりに美術教師を屋敷に呼んでやることにした。一対一で手解きを受けられるなど、ある意味大学に行くより厚遇だ。世間知らずな佐千代であってもそれくらいは理解していたようで、機嫌を少し戻した。肝心な佐千代の画家としての腕は驚く早さで成長し、数年もすると描く度描く度絵が売れるようになった。値も段々と上がっていった。そんな佐千代の目まぐるしい変化と共に生活する日々はあっという間に過ぎ、気づけば佐千代は二十六歳、俺が結婚した歳になる誕生日を目前にしていた。その事実を感慨深いものだと思った俺は、数年間平穏だったため心にゆとりがあったことも手伝って、初めて誰かに誕生日プレゼントというものを贈る気になった。しかし肝心の贈り物の中身はどうにも思い浮かばず、商品棚に陳列された物品に何ら魅力を見出だせなかった。無いならば作ってしまえばいい、というのが職人で、仮にも技術者として十五年仕事をしてきたから腕にも多少自信があった。まず市販されている無地のジッポをひとつ購入し、佐千代の初期の作品の内のひとつを元にしてジッポに彫りを入れ装飾を施した。蓋に佐千代の名前も刻んだそれは我ながらなかなかの出来で、誕生日当日の晩に贈ると俺の前ではそれまで一度も見せたことの無かった綺麗な笑顔を浮かべ装飾に見入っていた。思っていた以上の反応をされて今更ながら照れ臭くなり、特注で業者に作らせたと下らない嘘を吐いてしまったことは今でも心残りだ。俺にとってこの町に来て初めてかもしれない温たかな夜を終わらせたのは、ガンッという突然の大きな物音だった。驚き佐千代共々音のした方向を振り返ると、立ち上がった瑞姫の後ろに椅子が倒れていて蹴倒したことは明らかだった。
「去年までは誕生日プレゼントなんて用意していなかったじゃないの。お誕生会をするならすると予め言っておいてくれたらよかったのに。私は何も用意してないからね」
求められてもいない言い訳を早口で捲し立て、そそくさと椅子も直さず自室に引きこもってしまった。俺も佐千代もその態度に幻滅し、どうせ朝になれば出てくるだろうと放っておいた。
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