君の描いた町 2話

 四十九日も過ぎ落ち着いてきたところで、放置していた両親の部屋を片づけることにした。使用人にやらせても良かったのだが、ここまで育ててもらった恩返しのつもりで自分が引き受けた。もうしばらく誰も寝室を使用しないし折角だから普段なら掃除しないような奥の奥まで徹底的にやろうと、戸棚の中も次々荷物を退けていく。すると最奥に押し込むように入れられた小さな木箱を見つけ、何の気なしに蓋を開けてしまった。―――今となって思えば、それはパンドラの箱であった。中身は何通もの手紙で、差出人は全て俺の実母である大野おおの彼季あきだった。その懐かしい名前と筆跡を前にしてじっとしていられるわけもなく、気づけば封筒から便箋を抜き出して目を通し始めていた。いけないことだと良心が警鐘を鳴らしたが、手紙の差出人・受取人共にもうこの世にいないという事実が自分の行動を後押しした。彼季の決して達筆とは言えない丸っこい文字が示したのは、剰りに酷い過去だった。何通にもわたる彼季と光久との文通。当然手元にあるのは彼季からのものだけなので光久の返事は推測する他無かったが、それでも状況を大まかに把握するには事足りた。

 俺を身籠った彼季は光久にそのことを告げると、彼季の出自がしっかりしていないことを理由にあっさり捨てられた。子供をおろすことはどうしてもしたくなかったため、シングルマザーとなってでも産み育てることを決意したものの、現実はそう甘くなかった。元々大した稼ぎ口があったわけでもなかった彼季の生活はすぐに傾いてきた。光久に手紙を出していたのは、必ず返すからお金を貸してほしいと頼むためだった。しかし光久は自分には関係のない話であるとして断固拒否し続けた。

 手紙を要約すると、つまりこういうことだった。そして最後の手紙で、彼季はお金を頼む代わりに別の依頼をしていた。

『もうお金はお願いしません。代わりに、ひとつだけ約束してください。もしも私の身に何かあったら、息子の一俊のことを不自由なく育ててやってください。私の願いは、終始それだけでした。よろしくお願いいたします。』

 その手紙の消印は、母の命日だった。プツン、と自分の中で何かが切れる音がした。

 新年度になっても、宏樹は相変わらず毎朝佐千代と登校し毎夕佐千代と下校していた。その光景は、俺にとある策を閃かせた。

「こんにちは。いつも弟の宏樹が、お嬢さんにお世話になっております」

 菓子折を手に向田家へ赴くと佐千代の母親、向田瑞姫みずきが出迎えた。

「えーっと……どちら様ですか」

 瑞姫の第一声は、間の抜けたものだった。この町に住んでいながら俺の顔を知らない者が存在したのかと、柄にもなく感動してしまったのを今でも覚えている。名を名乗ると流石に組合長の家の息子だと思い当たったようだったが「一俊さん……宏樹でないということは、お兄さんの方かしら」と要領を得ない返事だった。そういえば葬儀にも娘が出席していてこの人の姿は見えなかった。もしかしたら、俺が隠し子であるとか今当主争いの真っ直中であるとか、そういったことについて全く知らないのではなかろうか。この町で唯一この人だけは、ちゃんと俺個人を見てくれるのではなかろうか。そんな淡い期待が、沸々と沸いてきた。その淡い期待は、これからしようとする残忍な計画への躊躇いを失わせ寧ろ助長させるに充分だった。瞬時に脳内で今後の予定を組み立て直し、もう随分としていなかった笑顔という表情を綺麗に作った。

「日頃のお礼がしたいのです。もしお時間があれば、ご一緒にランチでもいかがですか」

 瑞姫は当時三十四歳で俺の十歳年上だったが、何度か会ううちにだんだんと彼女の年齢にそぐわぬ本質が見えてきた。正に少女のまま年齢だけが増えていってしまったような人で、夢見がちな乙女思考を捨てられずに生きている姿を憐れにすら感じた。佐千代の実父をはじめとして男運が悉く無く過去話は聞くに耐えなかったが、それらの経験を何ら生かせていなかったし生かそうともしていなかったから、何度でも同じ場所に傷を負っていくのだった。娘の佐千代の心中としてはいい加減学習して欲しいものだったろうが俺としては寧ろ好都合で、少しくさい台詞で口説いただけで簡単に落ちた。

「同い年の弟がいるからわかりますが、娘さんも多感なお年頃でしょう。僕とのことはしばらく秘密にしておきましょう」

「しばらくって、いつまで?」

 鼻にかかった甘え声。

「結婚するまで」

 瞳を見詰めて囁けば、頬を染めて。

「いつ結婚できる?私、一俊さんと早く結婚したいわ」

「そう思ってくれて嬉しいです、僕も瑞姫と直ぐにでも結婚したい。結婚しよう」

 そこに至るまであっという間で、ここまで上手くいっていいものかと逆に不安を感じたりもしたが、結論からいうと出逢って半年で婚姻届にサインさせることに成功した。町役場へ二人で提出しにいくと、その日の内に町中で大変話題となった。俺はもちろん、言いつけを守り抜いた瑞姫も家族を含めた誰にも結婚のことを教えていなかったから、噂を耳にした親族らははじめそれを全く信じようとしなかった。念のためにと冗談混じりに事実を確認されあっさり結婚を認めたところ、騒ぎは一気に大きくなった。光久が彼季との結婚を散々反対されたくらいであるから、てっきり離婚しろと言われるかとも思っていたのだが、流石そこは昔ながらの田舎町。婚姻はそう簡単に破棄できるものではない、離婚なんてしてはいけないという古くさい考え方の者が大半で「結婚してしまったものは致し方ない」という風潮になった。こんなに簡単に結婚を納得されられるなら何故光久はもっと頑張らなかったのかと怒り心頭だったが、その感情の矛先はもうどこにも無い。俺と瑞姫の結婚に一番最後までごねていたのはやはり佐千代で、彼女は母親と違って当時まだ俺ですら自覚していなかった俺のどす黒い部分をしっかり見抜いていたようであった。佐千代が反対してきた時点で宏樹もそれに加担するとばかり考えて警戒していたが、意外にも終始何も文句を言ってはこなかった。

 結婚から一週間と経たぬ内に、高宮家の屋敷に瑞姫と佐千代が引っ越してきた。引っ越し業者が次々に段ボールを運び込むのを廊下の隅で突っ立って眺めている宏樹を発見し、その肩を叩いた。

「ここはこれから俺達夫婦の家なんだ。新婚なんだぜ、気遣えよ」

 憎らしいほど聡明な義弟はそれだけで俺が何を言いたいのか理解したようで「改めまして御結婚おめでとうございます」と宣い、微笑みさえした。善人の見本のような回答が気持ち悪く、おめでたくなどないと叫びそうになって俺はその台詞を吐き気と共に飲み込まねばならなかった。

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