君の描いた町

君の描いた町 1話

 大きな家や美人の母親。そんなものは俺にとって何の価値も無かった。ましてやそれが、自分の本当の親でないのなら尚更だ。

「何か欲しいものとかあったら、遠慮なく言ってね。一俊くんも、今日から私たちの家族なのだから」

 お母さん、と呼ぶことを暗黙の内に強要されたその女性は、美人で淑やかで、理想的な母親像そのものだった。いっそお伽噺に出てくる継母のような、誰から見ても悪役の性悪女だったら良かったのに。そうしたら俺は正当にこの人を恨めたし、反抗できた。でもどこまでも優しくて綺麗に取り繕われたこの人に、そういった隙は一切無かった。本当の母親は、もっとずっと欠点だらけだった。酒癖は悪いし、機嫌が悪いと直ぐに怒った。だけどその方がよほど人間らしかったと幼いながらに感じた。


 母子家庭で、決して裕福とは言えなかったけれど、二人きりの小さなアパートの部屋は俺にとってはかけがえのないものだった。子どもとして、守られるのが当然だと思える場所。愛されて当然だと思える人。それら全てが、そこにはあった。贅沢ができなくても父親がいなくても、そんなことは俺にとって些細なことでしかなかった。そもそも生まれたときから貧乏であり片親であったから、それに不満を覚えたことは殆ど無かった。

「この子の名前は、宏樹ひろきっていうの。弟として仲良くしてあげてね」

 だから人から羨まれるような富も両親も、俺にとっては逆に違和感の塊だったし、況してや異母兄弟なんて気持ち悪さしか感じなかった。まだ二歳になったばかりだという宏樹が、無邪気に俺の指を握った。


 *     *     *


 引っ越した先はとても閉鎖的な町だった。公共交通機関は一日に五本走るバスだけだし、周囲を山々に囲まれていたため町の南東にある道路が塞がれば孤立状態になってしまう。陸の孤島とも呼べるような場所だ。人口は三千人を少し上回る程度。それも代々その土地に住み着いている者ばかりなので、町人は互いのことをよく知っていたし、みんな余所者はすぐに判別できた。新しく住人となった男児が十歳であるとか、その子が高宮家当主の隠し子であるとか、妾がその隠し子を利用して財産を狙っているとか……録でもない噂話が引っ越したその日中に町内全体を駆け回る程度には、町人同士の情報は筒抜けだった。

“碌でもない噂”とは言ったが、あながちその内容に間違いがないのだからやはりこの町のネットワークは恐ろしい。俺―――高宮一俊は確かに当時十歳だったし、父親は現高宮家当主である高宮光久みつひさだ。違うのは妾云々のことくらい。そもそも噂の渦中の人は既にこの世にいなかった。母親を亡くして身寄りが無くなったからこそ、俺は仕方無く本家に引き取られたのだ。こんな事態を望んでいた者は誰一人として存在しなかっただろうと思った。誰一人として。

 自然に囲まれた田舎ではあったものの、この町の主要産業は第一次ではなく第二次産業。豊富な清水を生かした精密機械工場が立ち並んでおり、総じて業績が良かった。便の悪過ぎるこの町でここまでの結果を出せていたのは、町ぐるみで情報漏洩を防ぎ、代々伝承してきた特別な技術とそれを成し得る職人の腕があればこそ。そしてその、町の生命線となる技術を開発したのが、俺の曾祖父である高宮寛吉かんきちだ。それ以来代々高宮家当主は中小企業組合長をしており、更なる技術開発を続けている。この町において組合長は町長よりも何よりも格上と見なされており、絶対の存在だった。そんな御家の長男として、俺はこの町にいる限り何処に居ても特別視された。それはまるで町人全員に監視されているようですらあった。とても息苦しかった。それでも、行き場の無かった俺を引き取って、周囲に陰口を叩かれようとも気にする素振りを見せず何不自由なく育ててくれている高宮夫婦の手前、泣き言を吐くことは許されないと思った。代々長男が当主となっている慣例から考えて光久の血を継いでいる以上、順当にいけば俺が当主を継ぐであろうことは皆知っていたし、何よりその慣例について説明してくれたのは父だった。自分のせいでそうなったのでないにしろ事実として悪評高い俺を当主に据えようと考えてくれている父のためにも、高宮の名に恥じない人間になりこの御家に尽くそうと、早い段階から決意していた。先に述べたような状況であったから、町の何処へ行っても心が休まることなど一瞬たりとも無かったが、それでも無力な子供だった俺は、ただ期待された通りの道を歩く従順な操り人形たろうとした。

 元々高宮家はこの町において注目される家ではあったが、俺が来てからその眼差しの意味するところが羨望から好奇へと変わったと使用人たちが話しているのを耳にしたことがある。家族間で仲は悪いのか、妾の子で年上の俺と、正妻の子で年下の宏樹。どちらが家を継ぐのか。そんなことをひそひそと噂しては、俺が子供なのをいいことに無遠慮な視線を向けたり、近づいてくる者も少なからずいた。だから俺は誰とも深く関わりを持とうと思えなかった。それは異母弟の宏樹も同じであったようで、多くの友達を作ろうとは考えていないようだった。ただひとつ俺と違ったのは、宏樹には一人だけ心を許せる相手がいた。それは幼馴染みの向田むかいだ佐千代だ。二人は大抵一緒にいた。何をするでもなく、ただそばにいるという感じで、一緒にいることが当然のようだった。俺はそれをとても羨ましく…そう、羨ましく感じていたのだきっと。

 町内にある学校は、小さく古い小学校と中学校が一つずつあるのみだ。その先の進路として流石に高校くらいは行くというのが主流であったが、中には便が悪く移動手段も限られることを理由に、中卒も珍しくはなかった。高校に進学する者も、同様の理由のためにほぼ全員が一番近く――近いと言っても、バスは当てにならないことが多かったから自家用車や原付で登校する他ないが――にある翠高校に入学をした。俺も例外ではなく、当たり前のように翠高校へと進学し無難に高校生活を送り卒業、父を継ぐために高宮有限会社に就職した。そして比較的平穏に月日は流れ、俺が社会人五年目に、宏樹が中学三年生になった。その頃になると宏樹の能力が周囲から逸脱していることが誰の目から見ても明らかになってきて、それは地元教師の手に剰るほどの出来だった。周囲から翠高校よりも難易度の高い高校へと進学することを散々勧められていた。その様を目の当たりにし、俺は自分の立場の危うさを自覚した。流石に高宮家の人間には聞かれないように気を付けてはいたようだが、意識して聞き耳をたててみると町人達は「真に高宮家当主に相応しいのはやはり、正妻であり出自のはっきりしているご令嬢である理由子(りゆこ)さんのご息子、宏樹さんだ」とひそひそ話していた。焦る俺に対して、宏樹はというと実に呑気なものだった。結局大人たちが押し付けてきた沢山の高校の資料に一度も目を通すことなく、翠高校への進学を決めてしまった。入学式の朝、車に佐千代も乗せていって欲しいと使用人に頼むのを聞いて、全てを悟った。佐千代は母子家庭で当然使用人なんているはずもない上に母親に甲斐性がないらしく、高校までの通学手段が無かった。きっとそのせいで一度は進学を諦めかけていたはずだ。宏樹は佐千代のために、翠高校へ通うことにしたのだ。

 父親であり上司となった光久は、仕事に厳しい人間だった。来る日も来る日も俺は光久に叱責された。その一方で宏樹は高校で更に才能を開花させ、試験という試験で飛び抜けた好成績を残し続けた。その様を受けて町人達は「宏樹さんは高宮家次期当主の座を狙っているのでは」と真しやかに言い合った。それらの噂を知っているのは、どうやら俺だけであるようだった。両親ともに後継ぎを変えるなどという話をちらりとも口に出さなかったし、宏樹も後を継ぎたいと一度も言わなかった。俺はその事が逆に怖かった。いっそこの時点で最後通牒を出されていた方が、楽だったのかもしれない。

 隣町で開かれた会合に出席するために出掛けた両親が、深夜になっても帰って来なかった。代わりに一本の電話がかかってきた。その電話は、無機質に、二人の人間の最期を通達した。俺が社会人七年目、宏樹が高校二年生の冬のことだった。沢山の説明やら手続きやらをしたが、どれも記憶が曖昧だ。はっきり覚えているのは、両親は酒酔いダンプに跳ねられたらしいという何の救いにもならない情報くらいなものだ。葬儀は盛大に執り行われ、町の全家庭から各一名以上が参列していたはずだ。通夜振舞いの場は、後継ぎ問題で町人達が好き勝手に盛り上がっていた。普通に考えればまだ高校二年生の子供に当主など任せられるはずもないのだが、宏樹にはそれさえ有り得ると思わせるに足る能力と血筋があった。親戚一同で話し合い、慣例通り一年間喪に服したら次の当主をはっきりさせようということにまとまった。使用人たちはそのとき初めてその問題に気づいたような顔をして、俺と宏樹を遠巻きにどちらに付いて良いか判らずあわあわしており滑稽だった。噂の当人である宏樹はというと、そんな話題を耳にしたくないとばかりに会を抜け出し、ずっと棺の傍でぼうっとしていた。

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