桜田 優鈴

僕が逃げた町

僕が逃げた町

 街灯もろくにない田舎町。僕が生まれ、育ち、高校卒業まで暮らしていた町だ。

「随分と変わったな……」

 大学に入るために上京して以来一度も帰ってこなかったから、かれこれ十数年ぶりか。懐かしむような幸せな思い出などそもそも存在しない。それでも記憶の中の風景と目の前の景色とがだいぶ異なっていることに、多少なりとも感慨はあった。パチンコ屋は無くなっているし、花屋は自転車屋になった。かつて幼馴染みの佐千代さちよが描いた交通ポスターが貼られていた場所には、薄っぺらい標語が掲げられていた。

 それでも変わらないものもあった。橋の下の柱の隙間を進んだところにある、小さな空間。小学生の頃佐千代と共に見つけた秘密基地だ。二人で色々持ち寄って作り上げた、トピア。中学、高校の帰りは、ここでよく二人で宿題をしたりもした。

「お久しぶり、佐千代。ここは全く変わっていないな」

「待ってたよ」


 *     *     *


 東京の自宅に封筒が届いたのは、一ヶ月前だった。表面には僕の名前。裏面は白紙。すぐに封を切ると、中には小花柄の便箋一枚。

『私のこと、覚えてる?』

 文字だけで筆者がわかった自分に驚きつつ、一応文末の署名に目を移す。やはりそこには思った通り『佐千代』とあった。

『いくら貴方でも、流石に私自体を忘れたということは無いでしょう。だけど貴方はきっと、何故今更私から手紙が送られてくるのかと、疑問に思っているのでしょうね。本当は自力で思い出してほしいところなのだけれど、そんなことを言っても無茶だと思うから、機会をあげようと考えたの。ただ、貴方に忘れたという非があるわけだから、御足労いただくのは貴方ということで。この手紙は、その招待状代わり。八月十五日午後八時、秘密基地で待ってる。それではまた。佐千代』

 この手紙が無かったら、僕は一生この町に帰っていなかったかもしれない。否、確実に帰っていなかった。この町には、たった一つを除いて、消したい過去しかない。

「七時五十分か」

 佐千代が腕時計を見て微笑む。

「今回は約束を守ってくれて嬉しいわ」

「今回“は”とは、どういう意味だい」

「やっぱり覚えていないのね。いいわ、教えてあげる。それに、そのために貴方にわざわざ来てもらったのだからね」

 手で促されるまま、椅子に腰かける。汚れているかと思ったが、やけに綺麗で、よく見ればここには塵一つ無い。

「もしかして、掃除しておいてくれたのか」

「掃除ならいつもしているわ。私は今でもよくここに来ているの。絵のイメージが浮かばなくて行き詰まったとき、ここに来るとなんだかほっとするから」

「そっか」

 変わらない空間。だからこそ、自分自身の変化が、やけに気持ち悪かった。

「一応訊くけれど、貴方は何故私に呼び出されたのかわかる?」

「すまない」

 怒るでもなく、非難するでもなく。綺麗に綺麗に、佐千代は笑った。綺麗過ぎて、どきりとするほどだった。それはどこか、本当は心の中で泣いているようにも感じた。

「私のところに、これが届いたの」

 差し出されたのは、見覚えのある真っ白な封筒。既視感に首を捻りつつ、受け取って中身を見た。

「あっ……」

 道理で見たことがあるはずだ。それは僕が出した手紙だった。いや、正確には僕が依頼して大勢に一斉に出した手紙のうちの一通だった。

「ご結婚、おめでとうございます」

 顔をあげると、佐千代が目を線にして笑っていた。

「あ、ありがとうございます……」

 そう、これは僕の結婚式への招待状だった。式の日取りは、二週間後。

「さて最後にもう一度だけ訊くね。貴方は何故私に呼び出されたのか、本当に何も心当たりが無いのね?」

「僕に祝福の言葉を言うため……ではないのだろうね」

「自惚れないで頂戴」

 手のひらを差し出され招待状を返すと、佐千代は懐からおもむろに何かを取り出した。

「素敵でしょこのジッポ。装飾が凝っていてね、特注品なの。一俊かずとしさんがね、わざわざ私のために作らせてくださったのよ」

「かず…とし……」

 その、一番聞きたくなかった名前に、記憶の底に封印していた名前に、まるでそれが封印を解く呪文であったがごとく、一気に過去がフラッシュバックした。

「思い出したみたいね、色々と。でも残念、時間切れ」

 ピンッと右の親指で蓋をはねると、シルバーの縁から赤々とした火が灯る。その手はそのまま、左手で摘ままれた招待状を躊躇いなく燃やした。燃え尽きて完全な灰となるまで、二人とも小さな火に目を奪われていた。

「私はね、」

 再び目が薄暗さに馴れる頃、ぽつりと語り出す。

「ずっと待っていたのよ、貴方が助けに来てくれることを。でも貴方はいつまでたっても、助けてなんてくれなかった。それどころか、この町に帰ってくることすらなかった。挙句の果てに結婚?ふざけないで」

 声を荒らげることは決してなく。でもだからこそ、その台詞は悲痛な叫びとして僕に届いた。

「一俊さんにこの招待状を見せられたときの、私の気持ちがわかる?わからないでしょうね。にたにたと汚ならしく笑って、彼奴は言ったわ。『俺と一緒に出席しようか。そして一緒に、式をぶち壊してやろうよ』ってね。初めて、彼奴と同じことを考えていたわ。……あんな外道と同じことを一瞬でも考えていた自分に虫酸が走った」

「佐千代、」

 突然、覆い被さるように抱き締められて、ひんやりと冷たいものが頭から滴った。背中を伝う感触に、夏だというのに鳥肌が立つ。

「だから私は、彼奴とは別のやり方を必死で考えた。考えて考えて……考えているうちに、どんどんおかしな方に転げて行って、だからごめんなさいね、優しくはなれなさそうなの。だけどどうしようもないの。一度思い付いたら、もう消せなかった」

 ピンッと澄んだ音がした。

「さようなら」

 離れていくとばかり思ったのに、佐千代は一向にその場を動こうとしない。それどころか僕を抱く腕により一層力を込めた。佐千代は華奢だ。振りほどこうと思えばいくらでもできた。だけどそれをしなかったのは。腕を佐千代の背に回し抱き締め返すと、小さくその肩が震えた。

「約束、君はずっと覚えていてくれたんだね」

 耳元で、くすりと笑う気配がして、頬を刷り寄せる。

「ええ、片時も忘れたことなんてなかったわ。貴方のいない十三年間、私にとってこの世界は、地獄でしかなかった。あの約束だけが、唯一の希望だった」

 それはともすれば子どもの戯言と流されそうな、そんな淡い約束。まだ僕らが、本当に何も知らない幼稚園児だったころに交わした約束。歳を重ねるごとに、大切に大切に想いも重ねてきた、硝子細工のような約束。現実を知って、世界の穢さを知って、それでも清らかなままであってほしいと願った約束。

「僕が屈してしまった約束を、君はずっと守ってくれていたんだね」

 大学へ進学するために町の外へ引っ越すことを決めた宏樹。大荷物を抱えて車に乗り込もうとする背中に、屋敷から飛び出してきた佐千代の声が刺す。

「貴方が居なくなればこの町は平和になるとでも思っているの?自分が周りにそんなに影響力のある存在だとでも?貴方がいなくなったって、精々私の世界が壊れるだけよ。自惚れないで」

「自惚れてなんかいない。俺はただ逃げるだけだよ」

 ただそれだけ言い置いて、僕は振り向くことすらしなかった。心も身体も、ぼろぼろになりながら。僕が逃げてしまった場所で、佐千代は戦い続けていた。

「ありがとう」

 そっと髪を梳くように頭を撫でると、小さな嗚咽が聞こえた。

 今僕が言いたいたった二文字の言葉は、きっと君の一番言いたい言葉でもあって。そしてそれは、今となっては僕らが口に出来ない言葉だった。

 赤々と燃える炎の中で、この世で最も憎まれたかった人に「貴方しか要らなかった」と微笑まれながら最期の時を迎えるのだ。


 ―――――fin.

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