第38話 禍津神、悪徳領主へその所以を示し、仆す

 蓑虫の如く【蜘蛛の巣】に絡まったパズスを、イトは暫く放っておいた。

 どこからか取り出したワイングラスに、日本酒を注ぐ。

 平和になった星空を仰ぎながら、美味そうに口に含む。


「うーむ。やはり一苦労超えた後の酒は美味だのう」

「お、おい!! 放せ!!」

「ん? これを飲みたいのか? どうせお主には分からんよ」


 指でつまんだワイングラスを揺らすイト。

 透き通った酒の向こう側に、必死に藻掻いて揺れるパズスが見える。


「これは、マナという神が豊穣の神威にて齎した、米という代物を使っておる。ころした貴様が含んでよいものではない」

「マナ……忌々しいアマスのところの神か……見てみたかったよ。あのジジイの泣きっ面をな……」

「まあ、そのアマスに貴様の解放軍を蹴散らされたんだがな」

「な……馬鹿な、死んでもおかしくない重傷だったはずだ」

「人とは不思議なものだ。神の想像すら超え、肉体を駆動させるのだからな」


 大樹に背もたれながら、誇らしそうに日本酒を味わうイト。

 だが、直ぐに重厚な眼光をパズスへ送る。


「そして、神の想像すら下回る外道もおるわけだ」

「……!!」

「その外道の為、一瞬だけ禍津神に戻るのじゃ。飲まなきゃやってられぬ」

「禍津神……?」

「ただ死を看取る死神とは違うぞ。死は本来、永久の安息だ。まあ救われぬ者を間引いても来たが……禍津神の教義はそれではない」


 『自らの心に従え』——そんな教義を、日本ではしていなかった。

 寧ろ、逆の祈りを毎日のように捧げられていた。

 泥と血に塗れた、悲嘆の顔ぶれをイトは思い出す。



『何を思うや。忘れよ、罪人は永久とこしえわざわいに仆れたり』



 日本酒は尽きた。だが、酔えなかった。

 残念そうにイトは溜息をつく。


「2000年前、そういう歌が流行っておった。クニ同士の争いで、あるいは野盗の類に、あるいは食料を奪い合う仲間に殺されることが日常茶飯事だった。人が繋がった社会において、隣人の喪失は何にも代えがたい恐怖と哀しみを生み出した」

「2000年前だと……はっ、200年より前は、神とて知らぬ空白の歴史だぞ」


 この世界の事ではない。と言っても無駄だとイトは口を閉ざす。

 とはいえ、地球と同じ人間が住まう星の話。2000年前に遡れば、地球と何も変わらない進化苦痛の歴史が垣間見えたかもしれない。


 2000年前。

 それは、まだ日本という名前が面影も無かったころ。

 卑弥呼という救世主もどこかにいなかったころ。

 禍津神が、まだいなかったころの話。


「人々は願った。あるいは呪った。愛しいクニの平和と、怨む敵への禍を――そこで、


 イトが指差す。

 途端、人差し指から黒い線が伸びる。

 それは、パズスの心臓部分へと繋がった。


「な、何を……」

願い呪いの通り、我はいくつもクニを滅ぼした。神を殺した。永久の禍に閉じ込められた敵を見て、人々は恐怖と哀しみをすることが出来た。だが同時に、外道に落ちれば終わりなき闇に沈むと、無意識で我を心に宿した。それは古事記にも、日本書紀にも載せられぬ程に忌々しい禍津神として、人々の内奥に刻まれたわけだ」

「うっ!? ま、待て、な、!?」


 パズスからはもう、自分の身体精神以外は何も見えない。

 かろうじて見えるものといえば、今イトと繋がっている黒い線。

 イトからは存分に見えるパズスの顔が、恐怖に歪んでいく。


「大和の時代になってからも、飛鳥の時代になってからも、我と神官一族は良く。人の道を踏み外した外道相手にな」

「う、うわあああああああああ!?」

「お主が居るのは、古の日本が望んだ、禍の獄」

!?」


 【蜘蛛の巣】が大きく揺らめく。暴れる。

 だが黒い線からも、【蜘蛛の巣】からもパズスは逃れられない。


「ひい、ひい、ああ、あああああ!!!」


 今や、パズスの五感全てが無限に深い深淵を感じている事だろう。

 その彼方に、数多の手が蠢いている。

 2000年間、禍津神によって間引かれた、無数の罪人と神。


 もう、誰も原型を留めていない。

 いまからパズスも、あの無間地獄の仲間入りをする。


 この黒い線が斬られれば。

 あとは底に、落ちるだけ。


「わ、分かった、分かった、俺の副官にしてやろう!! だから待てえええ!!」


 地獄を垣間見ても、傲慢は消えそうにないらしい。

 良かった、とイトは思った。

 間引く価値さえない外道相手ならば、存分に禍に放り込めるからだ。


 存分に、禍津神をやれる。


「禍津神イトの神威は、本来【イト】に非ず。これはオマケのようなものじゃ。イザナミという神に封じられておっての。だが、少し封印は緩んだ」


 その緩んだ、こそが、黒い線の正体。


「【たおれ】——それが禍津神たる我の、本来の神威にして、名の所以」

「あ、ま、待て」


 ジバールから借りてきた剣を抜く。

 イトとパズスを繋ぐ黒い線目掛けて、軽く振り下ろす。


「神威解放【仆切イトキリ】」


 断たれた。

 黒い、命綱が。


「あ」


 禍の深淵が、開かれた。



======================


 ……………………。

 ………………。

 ………。

 ………。


 ずっと、暗闇。


 もう、何千年たった事だろう。

 何万年、何百万年、何億年かもしれない。

 パズスは、ずっとダーツをされていた。


 的として、何兆年も固定されている。

 何京回、錆びた矢に貫かれたことだろう。

 それでも意識を保っていることに最初の何千回かは疑問を抱きもしたが、万を超えたあたりでどうでもよくなった。


(やめろ、おれは、当主だ)


 見えないところから掌が出てきて、矢を投げてくる。

 たん、と乾いた音と、熱い感触がパズスを襲う。

 もう、数えるのはやめた。痛いとすら思えない。


(俺は、おれは、なにかの、当主、の)


 パズスは、生前何かの上に立っていた。

 だが途中で禍津神と名乗った存在に邪魔され、そしてこの地獄へと切り落とされた。

 確か彼は、ここを【禍の獄】と呼んでいた。


(あれ? なんだっけ?)


 それ以外が、思い出せない。

 もう、名前さえも思い出せない。

 穴だらけだ。パズスという人間だったことも、パズスという魂も、とうの昔に穴だらけになって、そして無くなっていた。


(やめろ、いたい、俺は、俺は、あ、あ)


 しかし、禍は続く。

 人々が恐怖と哀しみから逃れるための歌は、まだ続く。



『何を思うや。忘れよ、罪人は永久とこしえわざわいに仆れたり』



=======================


「日本酒が不味いのう。マナに申し訳ない」


 の隣で、日本酒を啜りながら座り込むイト。

 間引くことさえ、楽しくない。

 故に、【仆切イトキリ】など正直反吐が出る程に辛い。


2000年前は……いや、この世界に来る前は、何も思わず出来たんだがな」


 試すんじゃなかった、とさえ後悔した。


 禍津神だった頃は、平然とできたのに。この【仆】という神威があるからこそ、日本を奪う力を有していたのに。この異世界に来た時、最初は【仆】を使って主神に成り上がろうとしていたくらいなのに。


 日本酒が不味いのは、現人神へと鞍替えしたからだろうか。

 あるいは人間の肉体故の制約だろうか。

 神にも、分からないことはある。


「何を思うや。忘れよ、罪人は永久とこしえわざわいに仆れたり」


 と、歌ってみた。

 何も起きない。

 だが何の変哲もない、怨敵への忌避たる歌からイトは紡がれた。


 人は、分からないものだ。


「【あの一族】は、人の身でよくも、2000年間もこんなことを……」

「イト様ー!!」


 深淵に近い森林に、ツクミの声がした。

 松明が、何灯も夜闇の自然を照らす。禍の獄にさえ届くような、暖かさを感じた。

 灯りは、ロックドアの人間達を照らす。修道女も、第18騎士団も、人間賛歌オンリーも皆、誇らしげな顔になっていた。

 更にはステラに肩を貸すジバールの姿もあった。


 その中心に、神官たるツクミがいた。


「かかっ」


 防衛に成功した勝利の歓喜に包まれながら、最後の一滴まで日本酒を飲んだ。


「酒が美味しいのう」



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