第7話

僕が舞台に駆け上がった時、辺りは会場を震わす歓声と、影一つ作らない無数のスポットライトの光に包まれていた。これだよこれ、思い出したぞ。僕は思った。僕はこの空間を知っている。観客から送られるこの声援の意味を知っている。

「みんな今日は来てくれてありがとう!」

 バショーはその声をじっくり堪能してからマイクを取り、そう言った。バショーに応えるようにそこここから歓声が上がる。どこからか聴こえる指笛の音が心地いい。

「今日はみんなに言っとかないといけないことがある!」

 バショーは続けて言った。言っとかないといけないこととは勿論、僕のことだ。

「今日はリードのギターが違うから、よろしく!」

 バショーの言葉に視線が僕に集まる。その視線は、期待の目とともに、先ほどの金原よろしく疑いの目も含まれている。バショーはそのことに勘付いたのか、すかさずフォローを入れる。

「大丈夫、こいつ俺より上手いから」

 言われる側としては悪くない思いだ。バショーだって決してベースが下手ではないのだ。むしろベース一筋、ベース以外の楽器はろくに触ったことすらない。そんな男からの賛辞の言葉としては、最大級の表現といっていいだろう。ますますその期待に応えなくては。

「じゃあ一曲目、絹の道」

 待ってましたと言わんばかりに会場が声で揺れる。それと同時にドラムのリードに合わせて一曲目がスタートした。音がとにかくいいな、多少雑でもしっかり音を拾ってくれる。まず僕はこのライブハウスの音響設備の良さに感心した。ギターの方はと言うと、最初の一瞬こそぎこちなかったものの、曲の二番に入るころには昔の勘を取り戻していた。今の調子は、すでに絶好調だ。面白いほどに自分の手が、指が動く。こんなにギターって楽しかったんだ、と僕は改めて感じた。

 二曲目は一曲目と打って変わってテンポが抑えめで、音も穏やかだった。そのかわりメロディーラインが複雑でギターパートにも繊細な指使いが求められた。生憎、今の僕ではこの程度敵にはならなかった。アニソンの方がもっと難しい。

 三曲目はもっと抑えめだ。いい曲だな、僕はこの曲を気に入った。マイナーコードの使い方が僕好みで、このバンドの人気っぷりも納得できると思うほどだ。僕がこのバンドにこのまま居続けたら、僕はふとそんなことを思った。さぞ楽しいだろうな、ここは。いや、僕は空との約束があるのだ。そんなことは出来ない。僕はこの考えを必死に振り切ろうとして、ふと観客たちを見た。皆が楽しんでいる、性別や年齢を超えて一つになっている。

 その中に空もいた。彼女は一番後ろにいた。空を見つけるのは僕にとって簡単なことだった。空はこの空間の中でもっとも異質、浮いた存在だった。周りと同じように曲を聴くことも、隣の見ず知らずの人とその興奮を分かち合うこともしない。空はただ、ただ僕のことを見ていた。真っ直ぐ僕のことを見ていた。他のことには全く興味を示さず、上の空だった。怖い、と思った。喫茶店の時ほどではないけれど、やはり彼女は異質だった。いや、異物だった。僕はその様子に一気に現実に引き戻された。僕の五感が一気に引きずり戻される。熱が冷却される。気づけばすでに、曲は残り一曲となっていた。

 ラスト一曲、会場のボルテージは一気に跳ね上がる。このイベントにはアンコールがない。最後の曲は勿論一番人気だ。最初の曲よりさらに激しく、二曲目よりさらに繊細に。僕は自然にピックを握る力が強くなった。この曲に僕の思いを乗せる。折角の機会だ、少しぐらい楽しんでも罰は当たらないだろう。呪われたりしないだろう。つい先ほどのことを忘却するように、僕は勢いよく腕を振り下ろした。

 振り下ろした右手は綺麗な和音を奏でた。そして僕は違和感に気づいた。僕の右手にはピックが握られていなかった。つい一秒前まで力強く握っていたはずのピックは、僕の足元に無様に転がっていた。正確には張り付いていた。僕の顔から一気に血の気が引くのが分かる。このあとわずか3秒後には最初の見せ場のギターソロに入る。どうする、どうする、どうする!僕はこれまでにないほど頭を高速で回転させた。そして意外に早く解決策を思いついた。最初からずっと我慢していたのに、僕は思わず笑みをこぼした。そうだ、こんな簡単で有効な方法があるのを忘れていた。いいだろう、やってやろうじゃないか。僕は手持ち無沙汰の右手を弦にそえた。むしろ、これをするために僕がわざとピックを落としたのではないかと思うようにすらなってきた。

 ギターレスポール、レスポールの起源はアコースティックギターだった。アコースティックギターとは主に手で弦を弾き演奏するギターのことだ。そして僕が持つギターは黒いレスポール、レスポールスタンダードの内の一つ。僕はまるでこれが本職だと言わんばかりに、ピックを持たず、右手を弦にかけステージの前に進み出た。次の瞬間、可動式のカラースポットライトが何台も僕を赤色に照らした。僕は手元を見た。その黒いボディはライトの赤い光を吸収し、依然黒く輝いていた。さあ、やるぞ。僕は息を吸い込むと爪で弦をはじいた。そう、僕は素手でこのソロパートを乗り切ろうとしていた。

 速く、更に速く!僕は下唇をかみしめた。血が出るくらいかみしめた。そうしないととても集中が続かなかったから。僕の演奏は最初、静寂を持って迎えられた。観客は皆戸惑ったのだろう、飛び入り参加で、かつ無名のリードギターが、大事なソロパートをピックなしで、あろうことが素手で弾こうとしているのだ。

 だがその静寂はすぐに破られた。観客はその見ず知らずのギタリストの暴挙に、確かな技術と自信を感じたのだろう。空気すら震わすような、過去一番の歓声が上がった。スピーカーが音量で負けてしまうほどの歓声、それはもはや一種の音楽と言ってもよかった。成功したのだ、僕の目論見は。僕は必死に、慣れぬ右手を操り続けた。他のメンバーはと言うと、バショーの声は震えていた。それは歓声によるものではあったが、それだけではないような、言外の言い知れぬ感情が含まれていた。

 そして、僕はもう空のことを見ていなかった。空がどう思うとも、たとえ今の僕が、彼女にどういった感想を持たれようとも関係ない。ことギターに関しては、僕は自己中だ。僕はいつでも、僕が満足できる表現をするのだ。外野は一旦黙っていてもらおう。これは僕のステージだ。

 遂に曲はラスサビを迎えた。その瞬間ステージと観客たちとの境目はなくなり、完全に一体となった。僕のやりたいと思うことが、彼らのやりたいと思うことが手に取るように分かった。僕たちはそれを上手いことミックスして、その時出来る最高のクオリティで出力した。僕は思った、これは僕が今まで体験してきたライブとはどれとも違う、全く新しい境地のライブだ。観客とバンドが限界まで拮抗するとライブとはここまで化けるものなのか、と。しかし、まだ伸びしろはある、もっとたくさんの人とライブがしたい。もっと多くの人とこの感覚を共有したい、またあのメンバーで、またあの場所で。

 気づいたらライブは終わっていた。

「ありがとー!」

 そうマイクに叫ぶバショーの声だけが聞こえる。僕は肩で息をしながら顔をあげた。会場にいた400人が、表情こそ違えど、みんな満足そうな表情をしている。これがやり切った、という感じか。僕はその景色をぼーっと眺めていた。すでに右手の感覚はなく、口の中には、乾燥して固まった血の気持ちの悪い感触が伝わってくる。

「辺野、おい辺野!」

 バショーに思いっきり背中をたたかれて僕ははっと我に返った。すでにライブは終わり、各々が帰り支度を始めている。中には興奮冷めやらぬ様子で何事かを熱心に語り合っている人々もちらほら見かけた。

「辺野、やっぱりお前凄いよ」

 バショーは僕の肩に腕を回し昔のようにそう言って笑った。僕はようやく実感がわいた、やり遂げたんだ、このライブを。成功に導いたんだ、この僕が。僕はバショーに笑って答えた。

「当たり前だろ?俺を誰だと思ってんだよ」

「そんなの、全部ほったらかしで逃げたばか野郎に決まってんだろ」

 バショーは笑いながらも一瞬の迷いなくそう答えた。そうだったな、僕は何もしなかったんだな。こいつにも、あいつらにも。

「バショー、ごめん」

 バショーはそう言われるのを全く予想していなかったように、きょとんとした顔になった。そしてやれやれと言う感じで笑った。

「言うのが1年おせえんだよな」

 僕らは他愛のない話をしながら楽屋に戻った。楽屋に戻るや否や、金原が僕に頭を下げてきた。

「すまなかった」

「ちょ、おい。どうしたんだよ、急に」

 僕は慌てて頭を上げるよう促した。

「俺はあんたを疑ってた、でもあの演奏を見てその考えは変わった。確かにあんたはギターが上手い。とてつもなくな」

「上手いって、俺よりギター上手い奴なんてほかにいっぱいいるぞ?」

 金原の発言の意味を僕は掴みかねた。

「ばか、そういうことじゃねえよ」

 バショーが話に入ってきた。

「お前のそれは技術的じゃなく、表現力の問題だ。お前の演奏には何かのおまじないみたいに人を引き付ける何かがある、ってことだ」

 金原は頷いた。おまじないみたいに引き付ける、か。なにか魔法のような話だな。

「なるほど、金原に認めてもらえたようでうれしいよ」

 僕は金原に礼を言った。そして僕は今日最後の仕事にとりかかった。

「それで、バショー。お前ライブの前に俺と話したこと覚えてるか」

「…ああ、覚えてる」

「俺は確かにミスを一度もしなかった。それはいいな」

「確かにお前はミスを一度もしなかった」

「それでなんだが…」

「ああもう!まどろっこしいな」

 バショーは思わず声を荒げた。

「バンドリバースのことだろ?いいよ、やってやる」

 バショーは一息にそう言い切った。僕は思わずバショーを見た。

「ほ、ほんとか?」

「ほんとだよ。お前ひとりでどうやってバンドやるんだよ、やるんだったら一人、優秀なベースが必要だろ?」

「バショー!助かるよ!」

 僕は両手で喜びの気持ちを表現した。

「なんだよそれ、アメリカ人かお前は」

 僕たちは思わず笑ってしまった。そして、僕はかつてのベーシスト、米素馬生を再度仲間に加えることに成功した。

 帰り道、僕はバショーに疑問に思ったことを聞いてみた。

「それにしても、本当によかったのか?お前、自分のバンドあるのに」

「一旦休止だよ、リードギターがいないんじゃ話にならない。まあ、俺は幸い一人目星をつけてるけど」

 バショーは僕を横目で見ながら言った。

「俺は無理だよ、学業が忙しいんでな」

 僕は横目で一緒に歩く空を見ながら言った。空は別に我関せずである。それが逆に恐ろしい。

 渋谷駅につくまで僕とバショーはしゃべりっぱなしだった。おかげで駅までの道のりは一瞬だった。

「それじゃあ、今日のところは解散して、また明日会おう」

 そう僕たちは確認し、別れた。

 バンド再結成まで、あと3人になった。

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